マルプラケの戦い
1709年 · ヨーロッパ 中量
大同盟軍 — フランドル軍 · 10ターン · 駒 70
ブリーフィング
"Si Dieu nous fait la grâce de perdre encore une pareille bataille, Votre Majesté peut compter que ses ennemis sont détruits."
「神がわれらに、もう一度これほどの負けを賜りますなら、陛下の敵は滅びたものとお考えください」――ヴィラール元帥。膝を撃ち抜かれ、担架の上から国王ルイ十四世へ(会戦後の書簡として広く引かれる形。文言は伝本によって振れる)。
負けたのはフランス軍である。戦場に残ったのは同盟軍である。それでも、この一日ののちに息を吹き返したのはフランスのほうだった。同盟軍の損害はおよそ二万一千。フランス軍はおよそ一万二千。勝った側が、負けた側の倍近くを置いていった。ヨーロッパはこの規模の死者を、このあと百年のあいだ見ない。
一七〇九年九月十一日、フランドルとエノーの境。同盟軍はモンスを囲んでおり、その包囲を解かせるためにヴィラールが出てきた。だが彼は攻めなかった。二つの森のあいだの一キロの隙間に前日の夕方から塁を掘らせ、そこに七万五千を詰めて待った。マールバラとオイゲンは、九月十一日の朝七時半、その正面へ砲を開いた。
この盤の勝敗は点差ただ一本で決まる。点差は、拠点の点の差に、与えた損害と受けた損害の差を足したものである。つまり損害がそのまま点差から引かれる。塁を抜いて拠点を全部取っても、そこで兵を溶かしていれば、取ったぶんが右手から左手へ流れていく。マルプラケという会戦の性格は、特別な規則を足さなくても、この式の中に最初から入っていた。
【同盟軍の勝ち方】開幕の点差はマイナス九十六である。陣地も森も集落も、一つ残らずフランス軍のものだからである。勝利線はプラス六十。押し返すべき距離は百五十六点ある。中央の塁 Les Redans が三十点、西の森の前縁 Bois de Sars と東の胸壁 Laniere Abatis が二十二点ずつ、隘路の底 Aulnois Gap が十八点、村 Malplaquet が二十点。史実どおりに抜いて史実どおりに払うと、点差はおよそプラス八十七で、勝利線を二十七点だけ上回る――七段階のうち一番軽い勝ちである。それより上へ行きたければ、盤を取り切ったうえで損害の収支を黒字にするしかない。
【フランス軍の勝ち方】守り切る必要は無い。開幕から線の内側にいるので、同盟軍に百五十六点を渡さなければそれでよい。ただし塁は自分から出てくるものではない。占領は「止まること」なので、誰も立っていない拠点は乗られた瞬間に相手のものになる。
【正面の幅】西のボワ・ド・サルと東のボワ・ド・ラニエール。二つの森が中央で寄り、塁の立っている行では、そのあいだが五ヘクスしかない。一キロである。同盟軍は三十六駒を持っているが、塁の正面へ同時に立てるのは五駒だけである。数の多い側が数を使えない、という形は、活動枠ではなく盤の形で書いてある。塁は柵として立ててあり、隣接する敵が全員その辺を越えて殴りかかると守る側が二倍になる。一体でも横から回れば消える。だから森を取ることが、中央を開く鍵である。
【二つのCP】盤には勝利点の付かない地点が二つある。どちらも森の中で、増えるのは手数だけである。西の森を貫く木出し道 Sars Ride は、フランス軍が持っているあいだフランス軍の枠を十一から十四へ上げ、同盟軍が取ると八へ落とす。東の Bois Laniere は同盟軍が取れば同盟軍の枠を十二から十五へ上げ、フランス軍には何も起きない。いっぽう点が置いてあるのは中央の塁のほうで、そこにCPは無い。両翼が手数を叫び、中央が点を持っている。史実のヴィラールは西の森へ中央から兵を送り続け、その結果として中央の塁を空にした。午後一時、そこへオークニーの英歩兵が歩いて入り、うしろから騎兵が入ってきた。森を守るのは正しい。守りすぎるのが間違いである。
【西の森】柵の立っていないところが一か所だけある。西のボワ・ド・サルである。中央の塁と東の胸壁は前日のうちに掘り上がっていたが、この森の工事は九月十日の夕方に始まったばかりで、間に合わなかった。ここを守っていたのは木立と人だけである。そして盤の西の一列は森ですらない――ブリュイエール、つまりヒースの荒れ地で、森の外を南へ回れる帯が一本だけ通っている。T7(12:00)とT8(12:45)、この帯の北の口からウィザーズの縦隊が入ってくる。十九個大隊と騎兵。それまでの六ターン、同盟軍は正面から押し続けなければならない。早く押しすぎれば兵が尽き、遅ければ縦隊が着いたときに押す相手がいない。
【指揮官】同盟軍:マールバラ公ジョン・チャーチルとサヴォイア公子オイゲン(頭を撃たれ、包帯を巻いてそのまま指揮を続けた)の共同指揮。中央にオークニー伯ジョージ・ハミルトン――空になった塁に入ったのはこの人の兵である――と、アーガイル公ジョン・キャンベル、幕僚長ウィリアム・カドガン。右翼にシューレンブルクの四十個大隊とロットゥム伯のプロイセン兵二十二個大隊。左翼にオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーソ(二十二歳。この日、馬を二頭撃たれた)とティリー伯のオランダ軍。スパール将軍とオクセンシェルナ将軍は東の森の前で戦死する。騎兵にホンペシュ、オーヴェルニュ公、ヴュルテンベルク公のデンマーク騎兵、ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ(のちスウェーデン王)。迂回縦隊はヘンリー・ウィザーズ。
フランス軍:ヴィラール元帥。副将はブフレール元帥で、年長でありながら志願してヴィラールの下に入り、負傷後に全軍を引き継いだ。中央はピエール・ド・モンテスキュー・ダルタニャン(この会戦のあと元帥に叙される)。塁を縄張りしたのは幕僚長ピュイセギュール侯、砲兵はサン=ティレール。左翼の森はアルベルゴッティ侯。右翼の森にはフランス近衛、スイス近衛、亡命したバイエルン選帝侯の近衛、そしてアイルランド旅団――帰る国の無い連隊が並んでいた。塁の後ろにはリュクサンブール騎士の親衛騎兵。
盤に出ていない人が三人いる。ルイ十四世はヴェルサイユで報せを待っていた。一七〇九年は大寒波の年で、フランスは飢えていた。その春、王は屈辱的な講和条件を突きつけられ、それを蹴っている。マルプラケはその代金である。ギーシュ公アントワーヌ・ド・グラモンはフランス近衛の連隊長で、駒には部隊名だけが出ている。そしてマールバラ夫人サラ・チャーチルは、この日の死者の数がロンドンへ届いて政争の弾になるのを、二年後に夫が職を失うまで見ることになる。
【結末】午後三時、ブフレールは退却を命じた。フランス軍は隊伍を保ってバヴェーへ下がり、砲のほとんどを持って帰った。追撃はほとんど行われていない――追う側にその力が残っていなかったからである。同盟軍は戦場に残り、十月二十日にモンスを取った。取ったのはそれだけである。オランダ歩兵は半数を失い、オランダ連邦議会はこのあと二度と同じ規模の軍を野に出さなかった。ロンドンでは死者の数がそのまま反戦の材料になり、マールバラは一七一一年に職を解かれる。四年後のユトレヒトで結ばれた講和は、一七〇九年の春にルイ十四世が蹴ったものより、フランスにとってずっと軽い条件だった。あの春に王が屈していれば、この二万一千と一万二千は死ななくて済んでいる。フランスでは今も子供が「マルブルーは戦に行く」という歌をうたう――マールバラがこの戦場で死んだという誤報から生まれたと伝わる、間違いから生まれた歌である。
塁は一キロ、掘ったのは前の日の夕方だった
二万一千と一万二千、多く置いていったのは勝った側
持って帰ったのは町ひとつ、失くしたのは講和の重さ
担架の上で書かせた手紙が、この日を一行で言い当てている
もう一度これほどの負けを賜りますなら
陛下の敵は滅びたものとお考えください
前日九月十日の塁の構築と、午後三時以降の撤退、十月のモンス開城は盤に載せていない。盤は朝七時半から午後三時までの七時間半である。兵力は近年の中位の見積り(同盟軍八万六千/フランス軍七万五千)を採り、同時代の触れ書きの上端は採らなかった。盤の戦闘力は同盟軍百四十九・フランス軍百三十八で人数比より詰まっているが、これは近衛・親衛騎兵・アイルランド旅団の質をフランス軍に乗せたためである。三重の塁は柵一本に、両軍あわせて二百四十個大隊前後の戦闘序列は旅団規模の七十駒に畳んだ。※フランス歩兵の連隊名と同盟軍のドイツ諸邦の部隊名の一部には、当時のフランドル方面軍の編成からの推定を含む。
1ヘクス=200m、1ターン=45分、1CS≒600名。T1=9/11 07:30(同盟軍の砲が開く)、T3=09:00(オランダ軍の突撃)、T7=12:00(ウィザーズ縦隊の第一陣)、T8=12:45(第二陣)、T9=13:30(ヴィラール負傷・中央の塁が抜かれる)、T10=14:15(隘路の騎兵戦。終わりは15:00)。一度に動かせるのは同盟軍12駒(T7から14駒/東の森を取れば+3)、フランス軍11駒(西の森を持っていれば14駒/取られれば8駒)。勝利線は第一陣営(同盟軍)視点でプラス60、開幕の点差はマイナス96。
地図
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