一ノ谷の戦い
1184年 · 日本 中量
平家 — 源氏 · 9ターン · 駒 49
ブリーフィング
「三浦の方の馬場や」
──佐原十郎義連、一の谷の後山から坂を落とす前に(『平家物語』巻九「坂落」)
海と山のあいだに、幅が一升しかない所がある。盤の南西、Ichinotani の城郭の前は、北が Tekkaisan と Hachibuseyama の崖、南が海で、浜は一升ぶんしか残っていない。平家はここに木戸を立て、東の Ikuta Wood にもう一つ、北の Yamanote に三つ目を立てた。三つとも正面だけを固めてある。背中は、山と海が守ってくれるはずだった。
寿永三年二月七日、雪。前夜、源氏は西と東から福原を挟む位置に着き、卯の刻を箭合わせの時と定めていた。東の生田川の向こうには範頼の大手、西の塩屋には安田義定・土肥実平の搦手と、抜け駆けを狙う熊谷直実・平山季重。北の鵯越の山道には摂津の多田行綱。そして一の谷の真上の尾根に、寅の刻から、義経の選んだ七十余騎が居る。平家の側は、その前日に院から「八日に使いを下す。それまで合戦をするな」と告げられ、源氏にもそう伝えてあると聞いていた。
盤は午前六時、生田と一の谷で矢が飛びはじめたところから始まる。
【奇襲】盤に水色の縁の駒が三つある。Minamoto Yoshitsune・Sahara Yoshitsura・Miura Clan ── 尾根の上の七十余騎である。この三体のどれかが最初に攻撃するか攻撃されると、三体がそろってもう一度動き、もう一度攻撃する。一度だけで、活動枠は食わない。一の谷の城郭は西向きに固めてあり、北は崖に頼って開いている。三体は下り坂の一撃ぶん、戦闘力に1を上乗せしてある。
【平家の勝ち方/源氏の勝ち方】拠点は四つで 120 点、開幕は全部が平家のもの ── Fukuhara 40、Ikuta Wood 30、Ichinotani 30、Yamanote 20。点差は平家から見た一本の数字で、平家の持つ拠点の点から源氏の持つ点を引き、討った駒の戦闘力を足し、討たれたぶんを引いたもの。勝利線は −8。源氏が生田と一の谷の二つを取れば拠点の差はちょうど 0 になり、そこから討ち合いで 8 点勝ち越せば源氏の勝ちである。平家は四つのうち二つを守り、討ち合いで大きく負けなければよい。海と大河の向こうへは後退できない ── 浜で背を海に向けた駒は、囲まれれば討たれる。十時で盤は終わる。
【一度に動かせる駒】平家は二十一体のうち、最初は八体しか動かせない。和平の使いを待っていた軍が、戦う構えに移るのに一時間かかる ── 七時(T3)から十二体。源氏は二十八体のうち十四体で、最後まで変わらない。盤の南、大輪田の泊(Owada Anchorage)は平家の船の泊で、点は付いていない。ここを源氏に取られると平家は三体ぶん手が減る。
【指揮官】平家:平 知盛=新中納言(生田の大将軍)/平 重衡=本三位中将(生田の副将。この日、明石の浦で生け捕られる)/平 知章=知盛の子・十六歳/監物 頼方=知章の郎等/平 通盛=越前三位(山の手)/平 教経=能登守(山の手)/平 盛俊=越中前司(山の手の侍大将)/平 業盛=通盛・教経の弟(持ち場は推定)/平 忠度=薩摩守(一の谷の大将)/藤原 景清=悪七兵衛/平 盛次=越中次郎兵衛(二人は熊谷・平山に木戸を開いて応じた二十三騎の中にいた)/平 経正・経俊・敦盛=経盛の子ら/平 師盛=重盛の子(二日前に三草山で敗れて一の谷へ退いた)。西海・山陰の軍兵は、西国から集めた兵に名乗りを与えたもの。駒になっていない人:平宗盛(総大将。幼い安徳天皇と沖の船の上にいた)・平教盛・平経盛(子らを浜に残して船へ)・上総五郎兵衛忠光と飛騨三郎左衛門景綱(木戸の二十三騎)。
源氏:源 範頼=大手の大将軍/梶原 景時・景季=父子(景時は囲まれた子を救いに二度駆け入った)/畠山 重忠/千葉 常胤/小山 朝政/武田 有義/下河辺 行平/稲毛 重成/相馬 師常/庄 家長=児玉党/河原 高直=兄弟で生田の木戸へ一番に駆け入った/多田 行綱=摂津の源氏(山方から最初に山の手を落とした)/猪俣 則綱=盛俊を討つ(持ち場は推定)/安田 義定=甲斐の源氏(経正・師盛を討つ)/土肥 実平/田代 信綱/大内 惟義/山名 義範/糟屋 有季/熊谷 直実・直家=父子/平山 季重/岡部 忠澄=忠度を討つ/源 義経=搦手の大将軍/佐原 義連=三浦の十郎。三浦一党は和田義盛ら、義連とともに坂を落とした三浦の者。駒になっていない人:梶原景高(景時の次男)・源三俊綱(湊川のほとりで通盛を討つ)・中原親能(搦手の文官)。
【この盤で試せる判断】
一、義経の三体をいつ落とすか。尾根の上にいるあいだは誰も手を出せない。一の谷の木戸で熊谷と平山が噛み合ってから落とすか、開幕で落として木戸の裏を先に取るか。
二、平家は北を空けたままにするか。城郭の北の崖の下に駒を回せば奇襲の出口は塞がる。だがその駒は、最初の一時間は八体しか動かない手の中から出すことになる。
三、生田の森で持つか、湊川まで下がるか。生田川と湊川のあいだは開けた浜で、渡って攻められる川は二本ある。
四、大輪田の泊。取れば平家の手が三つ減るが、泊は福原の南で、渡るには湊川の橋を通るしかない。
【結末】一の谷は崩れた。義経の兵が館に火をかけ、平家は浜の船へ走った。熊谷直実は波打ち際で一騎を呼び返して組み伏せ、兜を上げると十六、七の若者だった。十七歳の敦盛である。腰には笛が差してあった。忠度は落ちてゆく途中で岡部忠澄に討たれ、箙に結んだ歌で名が知れた。重衡は明石の浦で馬を射られて生け捕られ、知盛は、子の知章が追手に組みついて討たれるあいだに、馬を泳がせて船へたどり着いた。通盛は湊川のほとりで討たれ、その妻は屋島へ向かう船から海に入った。落とされた首は千を超えた。宗盛は幼い帝を乗せて四国の屋島へ退いた。一年後、屋島も追われ、長門の壇ノ浦で平家は滅びる。坂を落とした義経は、壇ノ浦から四年後、兄に追われて奥州の衣川で死んだ。
雪の寅の刻、後山に七十余騎
三浦の者は、この崖を馬場と呼んだ
浜で、十七の笛が止み
箙の歌だけが、名を告げた
船は輪田の泊を出て、四国へ向かう
一年のち、同じ海に帝が沈む
坂落としの場所は昔から割れている。平家物語は鵯越と一の谷を同じ所のように書き、吾妻鏡は一の谷の「後山」を鵯越と呼ぶ。玉葉は義経が一の谷を落とし、山の手は多田行綱が落としたと記す。この盤は吾妻鏡と玉葉を重ねて、義経を一の谷の真上に、行綱を鵯越に置いた。兵の数も割れている(吾妻鏡は源氏を七万余騎と書き、玉葉は源氏の一方が一、二千騎に過ぎないと記す)ので、駒の数は盤の都合で畳んである。前々日の三草山の夜襲と、沖の平家の船は盤の外に置いた。
1ヘクス=400m、1ターン=30分、1CS≒100名。T1=2/7 06:00(卯の刻・箭合わせ)、T3=07:00(辰の刻・平家の手が十二に増える)、T7=09:00(巳の刻)、T9=10:00(玉葉「辰の刻より巳の刻に至る」の終わり)。
地図
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