シナリオ

鞍の戦い

紀元前589年 · 中国 中量

晋連合軍 — 斉軍 · 10ターン · 駒 49

ブリーフィング

「余姑翦滅此而朝食。」 「まずこいつらを片づけて、それから朝飯だ」――齊の頃公、癸酉の朝、鞍にて(『春秋左氏傳』成公二年) 盤の北東に、平野からいきなり立ち上がる山がひとつある。華不注。まわりに尾根が無く、裾がそのまま野へ落ちている。だから逃げる側はこの山を越えられず、追う側は回るしかない。北は濟水、東は齊壘、抜け口は山の裾を通る道が一本きり――斉軍がこの山を三度まわされたのは、地形がそう出来ているからである。 その裾に広がる野が鞍。周の六月、壬申の日に晋の軍が靡笄の麓まで来て陣を張り、頃公は使いを出して戦いを約した。明けて癸酉の夜明け、両軍は鞍に列ぶ。頃公は馬に甲を着せさせないまま駆け出した。朝食は勝ってから、というのがその朝の命令である。盤はここから始まり、昼前に終わる。 【勝敗の物差し】点差ひとつで決まる。(自軍の拠点の点)−(敵の拠点の点)+(与えた損害)−(受けた損害)。開幕は25対25の五分で、中立の拠点は鞍ただ一つ(30点)。晋連合の後ろに靡笄(15)と濼(10)、斉の後ろに齊壘(15)と華不注(10)がある。差が7に届かなければ引き分け、58で作戦的勝利、116で圧倒的勝利。 【齊侯の車】頃公の駒は一輌の戎車である。御者も、車右の逢丑父も、この一つの駒に乗っている。史実ではこの車に司馬の韓厥が追いつき、あと一歩で春秋の歴史が変わりかけた――その顛末は【結末】に書いた。盤には身代わりの器を置いていない。そして即死の器も置かなかった。頃公が討たれても斉が失うのは64のうち4であって、会戦はそのまま続く。**首ひとつで終わらせないのが、この盤の出題である。** 【手数】晋連合26体、斉23体。ところが一度に動かせるのは晋が10体、斉が11体である。体数の多い側の手数が少ない。理由は兵力ではなく、晋・魯・衛・曹という四か国の寄り合いだからだ。濟水の渡を押さえると、押さえた側の手数が渡ひとつにつき2つ増える。渡は西と東に一つずつ、どちらも戦線の北の外にある。取りに行けば翼がそのぶん伸び、しかも点は1点も増えない。 【指揮官】晋――中軍を将いる郤克。上軍を佐ける士燮(范文子。上軍の将は本国に残っている)。下軍を将いる欒書。司馬の韓厥。車を失って韓厥の車に同乗した綦毋張。郤克の車を御した解張と車右の鄭丘緩は、兵を率いてはいないので駒になっていない――矢が手から肘を貫き、左の車輪が血で黒赤に染まってなお「軍の耳目は旗と鼓にある。進退はそれに従う」と言い、手綱を左手にまとめて右手で鼓を打ったのはこの解張である。魯――季孫行父・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰齊の四人(『春秋』の経文が、この四人の名で師を帥いたと書く)。衛――孫良夫。その年の春に新築で斉に敗れた将が、そのまま鞍へ来ている。曹――公子首。 斉――頃公(名は無野)。高氏の軍を高固。晋の陣へ乗り入れ、石を投げて兵を打ち、その車を奪い、桑の根を吊るして自陣を触れ回り「勇が欲しい者は俺の余った勇を買え」と言った男である。國氏の軍を國佐(賓媚人)。一軍を率いたとは書かれていないが、斉の三軍は公と國氏・高氏が将いるのが定めなので、そう置いた。頃公の車を御した御者と車右の逢丑父、逃げる主君を乗せた佐車の鄭周父らは、いずれも兵を持たないので駒にしていない。ほかは臨淄・穀・紀の兵である。 ※部隊と指揮官の対応には、当時の編制からの推定を含む(内訳は作者用ノートに一覧がある)。 【この半日で試せること】斉――「朝食前に」と言った以上、遅れれば言葉が空手形になる。10ターンの前半で鞍の30点を取り切れるか。頃公を前へ出せば戦線は固くなるが、その一輌が抜ければ中軍の背骨が抜ける。晋連合――10しかない手数を鞍に集めるか、濟水の渡へ伸ばすか。渡は点にならず、増えるのは手数だけである。そして華不注の裾を先に押さえてしまえば、斉軍が東へ抜ける道はそこ一本になる。史実の頃公は、朝食を後回しにできる相手だと踏んだ。あなたはどうか。 【結末】斉軍は崩れ、華不注を三周した。韓厥が頃公の車に追いつき馬の前に立ったとき、車右の逢丑父はすでに主君と席を入れ替えていた。丑父は「華泉へ水を汲んでこい」と頃公を車から降ろし、頃公は歩いて逃げ、佐車に拾われた。頃公はそのあと丑父を捜して三度も晋の陣へ引き返している。狄の兵は戈と楯で彼を囲って通し、衛の軍も見逃した。捕らえられた丑父は「今日から、主君の患いを身代わりに引き受ける者はいなくなろう。ここに一人いるのに、それを殺すのか」と叫び、郤克は「人が死を厭わずに主君を助けたのだ。これを殺すのは縁起が悪い。赦して、主君に仕える者を励ませ」と言って解き放った。斉は紀の甗と玉磬と土地を差し出して講和を請う。晋は「頃公の母を人質に出し、斉じゅうの畦を東向きに引き直せ」と答えた。畦を東西に通せば、西から来る戦車がそのまま乗り入れられる。國佐がこれを拒み、盟は爰婁で結ばれ、汶陽の田は魯へ返った。晋はこの一戦で楚に敗れた名を取り戻し、翌年には三軍を六軍に増やしている。   馬に甲を着せぬまま、夜明けに駆けた   血は履まで垂れ、それでも鼓は鳴りつづけた   山を三周し、泉へ水を汲めと言われた男は、歩いて逃げた   買い手のつかなかった余りの勇と、東へ引き直せという畦だけが残り   朝食は、昼を過ぎてから出された 対陣に先立つ数か月(斉の魯侵入と龍の陥落、新築の戦い、莘での接触)は畳み、癸酉の半日だけを盤にした。人数は史料に晋の八百乘しか無いので、斉はそれと同程度と見て置いてある。歴下に城が築かれるのは後世なので、盤に邑は一つも無い。弩は戦国期の兵器なので、射程を持つ駒も置いていない。 駒の旗のうち、総大将の「帥」は小説・漫画の約束事にならったもので、史料に見える旗ではない。中軍の北斗の旗は『礼記』曲礼上の「招搖在上」による。 1ヘクス=600m、1ターン=40分、1CS≒500名。T1=癸酉の夜明け、T10=昼前。

地図

周辺図(概略) 鞌 臨淄(斉の都) ← 晋・衛から ← 魯から 黄河 済水 華不注山 泰山
周辺図(概略)
戦場図(概略) 華不注山 鞌 晋連合軍 斉軍 湿地 ← 済水の渡り
戦場図(概略)