新潟の戦い
1868年 · 日本 中量
新政府軍 — 奥羽越列藩同盟 · 9ターン · 駒 42
ブリーフィング
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
――河井継之助、長岡を落ちて会津へ向かう八十里越で(伝)。新潟を守った米沢の兵も、同じ峠を越えて帰った。
慶応四年七月二十五日、午前十時。新政府軍の先鋒は、阿賀野川を渡り終えた。
長岡の戦線は三か月動いていない。奥羽越列藩同盟は、新潟の港から入る武器で戦っている。新政府軍は柏崎で軍艦二隻と汽船四隻に千二百を乗せ、佐渡の小木で漁船を曳き、この日の早暁、新発田領の太夫浜へ上げた。浜は盤の東の外にある。盤は、先鋒が阿賀野川を渡った所から始まる。後続は東の縁の松ヶ崎の渡しから、T2とT3に入ってくる。
西へ十キロで沼垂、その先に信濃川、川の向こうが新潟町である。奉行所と湊がある。守るのは米沢藩家老・色部長門。米沢の兵に、会津、仙台、庄内の小勢。それに沼垂に出ている新発田藩の三駒。
【新発田】この三駒は裏切りの駒である。T1の頭に60%、T2には必ず、新政府軍へ移る。新発田藩は同盟の一員として兵を出しながら、この日は空砲を撃ち、道案内に回った。
【二つの川】阿賀野川と信濃川は、どこでも渡れる。ただし川を渡って攻めると、守る側が2倍になる。渡し場(小路の通る辺)だけは不利が無い。史実の新政府軍は沼垂で三日とどまり、舟三十隻を集め、二十九日の未明に上流から渡った。盤の時計はT5で二十九日の午前三時へ跳ぶ。
【一度に動かせる数】新政府軍は22駒のうち13駒。同盟軍は20駒のうち6駒である。逃げる兵が多く、総督の手は届かない。
【退く道】同盟軍だけは、盤の南西の縁から抜けられる。弥彦と加茂へ向かう道である。抜けた駒は戦闘力一につき二点。色部長門が抜ければ、さらに一〇点。町を守り切れなくても、兵を保って抜ければ負けは小さくなる。
【点】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。拠点は奉行所30・湊20・沼垂10・金鉢山10。開幕はすべて同盟軍のものである。新政府軍から見た点差が勝利線(+54点)より上で終われば新政府軍の勝ち、下なら同盟軍の勝ち。線から6点離れれば戦術的勝利、47点で作戦的勝利、94点で圧倒的勝利。6点に届かなければ引き分けである。
【駒の名】新政府軍:Yamada Ichinojo=山田市之允(長州。上陸の指揮。のちの山田顕義)、Kuroda Ryosuke=黒田了介(薩摩。総指揮。のちの黒田清隆)、Satsuma Tojo 1st=薩摩の外城一番隊(隊長は村田勇右衛門)、Choshu=長州、Geishu=芸州、Takanabe=高鍋、Akashi=明石、Fukuchiyama=福知山、Iwakuni=岩国、Chohei=徴兵隊。同盟軍:Irobe Nagato=色部長門、Yonezawa=米沢、Aizu=会津、Sendai=仙台、Shonai=庄内、Shibata=新発田。駒になっていない人:吉井幸輔(海軍と作戦を打ち合わせた総督府参謀)、岩村高俊(軍監)、溝口半兵衛(新発田藩の家老)、石原倉右衛門(庄内藩の中老。この朝、松ヶ崎で撃たれた)、スネル兄弟(武器を売った商人)。
【試せる判断】ひとつめ(同盟軍)。川の線で受けるか、兵を保って南西へ抜けるか。6駒しか動かせない。全部を逃がす手は無い。
ふたつめ(新政府軍)。信濃川をどこで渡るか。沼垂の正面か、上流の上所島から白山浦へか、さらに上流の出来島から平島へか。平島へ渡れば、同盟軍の退く道の上に出る。
みっつめ(新政府軍)。新発田の三駒が移るのを待つか、待たずに押すか。
【結末】二十九日の未明、陽動の隊が上流から渡り、主力は白山浦へ上がって二手に分かれた。一手は関屋の金鉢山へ、一手は寄居浜から町の裏へ回る。町に火が出て、下神明町、寺町、古町の五百軒が焼けた。午前十時ごろ、奉行所が落ちる。色部長門は本陣の光林寺の前で兵糧を分け、隊を解いて、おのおの才覚で国へ帰れと命じた。自分は二十人余りと加茂へ向かう途中、案内の誤りで関屋へ出て、平島から上がってきた高鍋の兵と鉢合わせした。傷を負い、その場で果てた。五日間の死者は同盟側四十三、新政府側九。
同じ日、長岡城がふたたび落ちた。米沢の兵は加茂の本陣に合わさり、八十里越で会津へ抜けて国へ帰る。同盟は海からの口を失った。
海から千二百
空砲を撃った藩が、道を教える
舟三十隻、未明の川
五百軒が焼け、午前十時
案内を誤って、関屋
八十里
太夫浜の上陸と、そこから阿賀野川までの行軍は盤の外に置いた。二十六日から二十八日の砲撃は時計の跳びで畳み、二十七日に軍艦の摂津と丁卯が沖から撃ったことは規則にしていない。黒田の率いた一隊(四百三十名)は新発田城へ向かった。そのうちどの隊がいつ新潟攻めに加わったかは資料に見えず、T3に同じ渡しから入れたのは推定である。庄内藩の兵が新潟に居たかどうかも推定である。川筋と海岸は今の地図からの推定で、当時の信濃川は今の倍ほどの幅があった。
1ヘクス=1km、1ターン=3時間、1CS≒40名。T1=7/25 10:00、T2=13:00(後続が入る。新発田の三駒はここまでに移る)、T4=19:00、T5=7/29 03:00(未明の渡河)、T7=09:00、T9=15:00。日付は旧暦で、七月二十五日は西暦の九月十一日にあたる。
地図
新潟
長岡(膠着した戦線)
柏崎(7/23 出港)
佐渡・小木(漁船を曳く)
新発田(寝返る)
→ 米沢
→ 会津(八十里越)
加茂(米沢の本営)
海
軍艦2・汽船4・兵1,200
太夫浜(7/25 上陸)
松ヶ崎
阿賀野川
信濃川
沼垂(25日の夕方)
新潟町(奉行所・湊)
7/29 未明、舟三十隻で渡る
関屋・金鉢山(色部長門)
弥彦・加茂へ落ちる
→ 新発田(黒田の一隊)
海