長平の戦い
紀元前260年 · 中国 重量
趙軍 — 秦軍 · 11ターン · 駒 71
ブリーフィング
兵、死地也、而括易言之。使趙不將括即已、若必將之、破趙軍者必括也。
「戦とは死地である。それを括は軽々しく口にする。趙が括を将にしないならそれでよい。どうしても将にするというなら、趙軍を破る者は必ず括だ」――趙奢が妻に遺した言葉。子の趙括について(『史記』廉頗藺相如列伝)
盤の北の稜線に、石を積んだ長城が東西に走っている。趙が百年かけて築いたものだ。柵は北を向いている。秦は南から来た。
三年の対陣だった。廉頗は丹河の東岸に塁を築いて動かず、王齕はそれを抜けなかった。趙の王は焦れ、噂を信じ、廉頗を召し返して趙括を送った。同じ日、秦の陣では王齕の上に武安君が着き、そのことを漏らした者は斬ると令が出た。趙括は着任するとただちに軍令を改め、塁を出た。
【趙括の勝ち方】韓王山の本営(40点)と長平(30点)を保ち、削り合いで負けないこと。開幕の点差は+70、勝利線は+25――尾根や渡を一つ二つ失っても、本営を保てば勝てる。だが動かずに勝てるわけでもない。四十五万を抱えながら、一度に動かせる駒は12しかない。趙括は着任してすぐ軍令をすべて書き換え、将校を総入れ替えした。そのうえ故関と大糧山を秦に押さえられれば、12は6へ、さらに3へ落ちる。
【白起の勝ち方】正面ではない。秦壁(6,15)は趙が取れば手数が+3増えるが、勝利点は1点も付かない。趙括をそこへ引き寄せているあいだに、奇兵二万五千を北の坂道から故関(14,2)へ回し、五千騎で丹河の渡を断つ。故関は石長城の門で、柵は北を向いている――南から登れば、壁は無い。
【指揮官】趙括=馬服子、趙奢の子。鋭卒=最後に自ら率いて突撃した手勢。馮亭=上党郡を趙へ差し出し、そのまま長平で戦った韓の将。白起=武安君、着任を秘された実質の総指揮。王齕=表向きの将。司馬梗=北を扼した将。奇兵二万五千と五千騎は史書に員数だけが残る二隊で、この二つが趙軍を割った。
【この盤で試せる判断】趙は塁を出るか、出ないか。出れば秦壁の+3が取れるが、丹河を背にする。橋は盤に二つしかない。出なければ手数は保てるが、故関へ回る奇兵を止める駒が足りない。秦は正面を押すか、北へ回すか。T5とT6に河内の徴発が南の縁から入ってくる――そのぶん枠は+2になるが、着くのは盤の南の端である。
【結末】四十六日、趙軍は囲まれたまま食を絶たれた。趙括は軍を四隊に分け、四度五度と突いて出て、最後は自ら鋭卒を率い、秦の弩に射られて死んだ。残る四十万は降り、白起はこれを長平の谷に埋めた。生かして帰されたのは、年少の二百四十人だけだったという。秦もまた兵の半ばを失い、邯鄲はこの年には落ちなかった。趙は二度と野戦の軍を起こせず、三十八年後に滅ぶ。
壁は北を向いていた
秦は南から登ってきた
四十六日、糧道は絶えて
四十万が、谷の名になった
戦は死地であると、父は言った
その死地を、子が見つけた
三年の対陣と、七月の空倉嶺・老馬嶺の攻防は畳んだ。盤に載るのは趙括が塁を出た朝からの数日である。四十六日の飢えは盤の外に置いた――勝負はその前についている。兵数(趙四十五万・秦五十万余)は『史記』の数字で、後世の研究では過大とする説も強い。戦闘力の比は人数の比(0.90)ではなく、ほぼ五分(0.99)に置いてある。
駒の旗のうち、総大将の「帥」は小説・漫画の約束事にならったもので、史料に見える旗ではない。前軍・後軍・左軍・右軍・中軍の四神と北斗の旗は『礼記』曲礼上による。
1ヘクス=800m、1ターン=720分(半日)、1CS≒3,500名。T1=九月一日の朝、T11=九月六日の朝。奇数ターンが朝、偶数ターンが夕。
地図
長平
→ 邯鄲(趙の都)
← 咸陽(秦)
→ 野王・韓
丹水
太行の山
山地
趙の本営
秦の本営
趙の塁
秦の塁
丹水
石の長城
→ 糧道を断つ