多々良浜の戦い
1569年 · 日本 重量
大友 — 毛利 · 12ターン · 駒 64
ブリーフィング
進め、わしの輿を敵の真ん中へかき入れよ
――戸次鑑連の下知(吉永正春『九州戦国合戦記』に拠る伝えの要旨)
筑前、多々良川。永禄12年(1569)の春、毛利元就の子、吉川元春と小早川隆景は四万の兵で北九州へ渡り、大友の立花山城を囲んだ。城の大友勢は糧道と水の手を断たれている。大友宗麟は肥前で戦っていた戸次鑑連・臼杵鑑速・吉弘鑑理を呼び戻し、三万五千が多々良川を挟んで毛利と向き合った。
5月18日の朝6時。毛利は十五段に備え、先陣は川を渡って箱崎松原まで出ている。河口は海から続く干潟で、下流は渡れない。上流の長尾には、小早川隆景の左翼がいる。大友の先鋒は戸次・臼杵・吉弘の三手、その両脇に豊前・豊後と筑前・筑後の兵。足の不自由な戸次は、輿に乗って陣頭に立つ。
【大友の勝ち方】一度に動かせるのは12駒。拠点は立花山城(30点・城番3駒が籠もる)と筥崎宮(10)を持って始まり、毛利の長尾(20)・多々良の渡し(10)・香椎宮(10)を取れば点差が開く。多々良より西の川は干潟で渡れない。長尾の浅瀬を抜けば、立花山城への道が開く。勝利線は0。大友から見た点差が0を上回れば、史実よりよく戦ったことになる。
【毛利の勝ち方】一度に動かせるのは10駒(十五段に固めた重い陣)。川の北岸の線を保ち、立花山城の囲みを解かせないこと。箱崎松原の先陣は、南岸に出すぎている。
【指揮官】大友:戸次鑑連(Betsuki Akitsura・のちの立花道雪)/臼杵鑑速(Usuki Akisumi)/吉弘鑑理(Yoshihiro Akimasa)。戸次の家臣の由布惟信・小野鎮幸、鑑理の子の吉弘鎮信も置いた。立花山城には城番の津留原らが籠もる。宗麟はこの戦場にいない。
毛利:吉川元春(Kikkawa Motoharu)/小早川隆景(Kobayakawa Takakage)/宍戸隆家(Shishido Takaie)/熊谷信直(Kumagai Naonobu)/乃美宗勝(Nomi Munekatsu)。福原貞俊・口羽通良も置いた。猛攻を受けた備後の楢崎・多賀山、小早川配下の椋梨の陣は、組の駒にした。元就は73歳で、孫の輝元とともに長門の長府にいた。
【この盤で試せる判断】
・(大友)干潟の下流を避けて、上流の長尾に兵を集めるか。中央の多々良を押して毛利の予備を引きつけてからにするか。
・(大友)立花山城の城番を打って出させるか。糧も水も尽きかけている。
・(毛利)南岸に出た先陣を下げるか。小早川が先陣を支えに回れば、長尾が薄くなる。
【結末】戸次は熊谷・楢崎・多賀山・椋梨の陣を猛攻し、陣が崩れかけると小早川隆景が自ら支えに回った。戸次はその隙に、手薄になった小早川の左翼・長尾へ新手を入れた。左翼は東へ退き、毛利の陣はおよそ三町押し下げられた。輿の上から「わしの輿を敵の真ん中へ」と下知する戸次の姿は、このとき37歳の隆景に強く刻まれたという。それでも立花山城は閏5月に開城して毛利に降り、対陣は秋まで18回の合戦に及んだ。勝負を決めたのは盤の外だった。宗麟が大内輝弘を周防の山口へ送り込み、尼子の旧臣も出雲で兵を挙げると、元就は九州の兵を呼び戻した。毛利は北九州から退き、翌年には立花山城も大友に返った。戸次鑑連はその城を預かり、立花道雪と名を改める。
干潟の向こうに、毛利の十五段
輿の上の大将が、前へと言った
小早川は支えに走り、長尾が空いた
毛利は三町、押し下げられた
城は降り、対陣は秋まで続いた
勝負は、海の向こうで決まった
戦場の細かな経過は、吉永正春『九州戦国合戦記』と、それが拠る軍記(『大友興廃記』など)による。立花山城がこの日まだ大友方だったか(閏5月開城説)、4月にすでに毛利の手に落ちていたかは史料で食い違う。この盤は前者を採った。両軍の数は大友三万五千・毛利四万余とされるが、軍記の数である。
1ヘクス=400m、1ターン=60分、1CS≒1,000名。T1=5月18日06:00、T12=17:00。
地図
多々良川
博多
立花山城
宝満山城(高橋鑑種・毛利方)
門司(毛利の渡海)
→ 豊後
長門(元就)
玄界灘
筑前
豊前
毛利四万(3月〜)
大友三万五千
立花山城
長尾(小早川の左翼)
箱崎松原(毛利の先陣)
河口の干潟
戸次鑑連(輿の大将)
毛利 十五段の備え
香椎
筥崎宮
博多湾
多々良川