第四次川中島の戦い
1561年 · 日本 重量
武田 — 上杉 · 14ターン · 駒 82
ブリーフィング
鞭声粛々、夜河を過る
――頼山陽「題不識庵撃機山図」(江戸時代後期の詩。謙信が夜のうちに千曲川を渡った場面)
信濃、川中島。武田信玄は海津城に入り、妻女山の上杉政虎(謙信)と向き合っていた。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は高坂昌信・馬場信春らの別働隊一万二千に夜のうちに妻女山を背後から衝かせ、山を下りた上杉勢を八幡原に置いた本隊八千で挟もうとした。
謙信はこれを読んで夜のうちに山を下り、雨宮の渡しで千曲川を渡った。永禄4年9月10日の朝6時、霧が晴れると、上杉の全軍が武田本隊の目の前にいる。別働隊は空の妻女山にいて、まだ戻ってこない。
【武田の勝ち方】一度に動かせるのは12駒(八幡原の本隊)。別働隊18駒はT2〜T4に盤の南の縁(妻女山の西の麓)から入り、T9(10時)に枠が6増える。拠点は八幡原(30点)・海津城(20)を持って始まり、上杉の雨宮の渡し(10)と丹波島の渡し(20)を取れば点差が開く。勝利線は-20。武田から見た点差が-20を上回れば、史実よりよく戦ったことになる。
【上杉の勝ち方】一度に動かせるのは12駒。別働隊が戻る前に、八幡原の本隊を崩すこと。殿の甘粕景持は雨宮の渡しで別働隊を食い止め、直江景綱は北の丹波島の渡し(善光寺への退き口)を守っている。
【指揮官】武田:武田信玄(Takeda Shingen)/弟の武田信繁(Nobushige)・山本勘助(Yamamoto Kansuke)・諸角虎定(Morozumi Torasada)・初鹿野忠次(Hajikano Tadatsugu)=この日討死/嫡男の武田義信(Yoshinobu)・穴山信君・内藤昌豊・山県昌景・武田信廉・原虎胤・跡部勝資・浅利信種。別働隊:高坂昌信(Kosaka Masanobu)・馬場信春(Baba Nobuharu)・飯富虎昌・真田幸隆・相木昌朝・芦田信守・小山田信茂・甘利昌忠。
上杉:上杉政虎(Uesugi Masatora・謙信)/先陣の柿崎景家(Kakizaki Kageie)・村上義清・斎藤朝信・本庄繁長/「血染めの感状」の色部勝長・中条藤資・安田長秀/信濃を追われた高梨政頼・須田満親/殿の甘粕景持(Amakasu Kagemochi)/小荷駄の直江景綱(Naoe Kagetsuna)。
【この盤で試せる判断】
・(武田)別働隊が着くまで、八幡原で固まって耐えるか。前へ出れば挟める形が崩れる。
・(上杉)本陣へまっすぐ斬り込むか、別働隊が着く前に北の丹波島へ退く道を確かめておくか。
・(上杉)雨宮の渡しの殿をどれだけ持たせるか。
【結末】上杉勢は次々に新手を繰り出して武田本隊に斬り込み、信繁・勘助・諸角・初鹿野が討たれた。後世の軍記は、謙信がただ一騎で信玄の床几に斬りつけ、信玄が軍配で受けたと伝える(伝)。巳の刻(10時)ごろ、空の妻女山から引き返した別働隊が千曲川を渡って上杉の背後に現れ、甘粕の殿を破った。挟まれかけた謙信は兵をまとめて犀川を渡り、善光寺へ退いた。両軍とも多くの死傷を出し、どちらも勝ったと言った。川中島で両軍が戦ったのは12年のあいだに5度、その中でこの日がいちばん激しかった。
霧が晴れると、敵が目の前にいた
山の上の陣は、空だった
弟も、軍師も、本陣を守って倒れた
昼前、背後の川を兵が渡ってきた
越後の軍は、犀川を越えて退いた
どちらも勝ったと言った
陣立てと兵数(武田二万・上杉一万三千)、「啄木鳥の戦法」は江戸時代初めの軍記『甲陽軍鑑』に拠る。同時代の史料は少なく、とくに山本勘助の役割は軍記の色が濃い。謙信と信玄の一騎討ちは伝えにとどめ、盤には入れていない。
1ヘクス=400m、1ターン=30分、1CS≒450名。T1=9月10日06:00、T9=10:00(巳の刻)、T14=12:30。
地図
川中島
善光寺
海津城
→ 春日山城
→ 甲府
甲斐(武田)
越後(上杉)
千曲川
犀川
八幡原(武田本隊)
妻女山(上杉の陣・夜に空く)
海津城
雨宮の渡し(上杉が渡る・甘粕の殿)
武田の別働隊(一万二千)
上杉全軍
丹波島の渡し(上杉の退き口)
千曲川
犀川