ワーテルローの戦い
1815年 · ヨーロッパ 中量 体験版に収録
英連合軍・プロイセン軍 — フランス北方軍 · 11ターン · 駒 78
ブリーフィング
Hard pounding this, gentlemen; let us see who will pound longest.
「ひどい叩き合いだな、諸君。どちらが長く叩けるか見てみよう」――戦いのさなか、ウェリントンが幕僚に言ったと伝わる(伝)
ナポレオンはこの日、七万二千の兵を持っていた。足りなかったのは兵ではなく、一度に出せる命令の数である。
1815年6月18日、ブリュッセルの南二十キロ。前の晩から降り続いた雨がようやく上がり、丈の高いライ麦の畑はどこもぬかるんでいる。三日前にフランス軍は国境を越えた。十六日、ナポレオンはリニーでブリュッヘルのプロイセン軍を破り、ネイはカトル・ブラでウェリントンを止め損ねた。プロイセン軍は北東のワーヴルへ退いたが、フランス側はそれを東へ逃げたと読み、グルーシーに三万三千を付けて追わせた。ウェリントンはモン・サン・ジャンの緩い稜線に軍を置き、「プロイセン軍が一個軍団でも来るなら、ここで受ける」と伝えた。ブリュッヘルは落馬して馬の下敷きになったばかりの七十二歳で、「来る」と答えた。地面が乾くのを待って、フランス軍の砲が動きはじめたのは十一時半である。ナポレオンは自分では正面を指揮しなかった。ネイに委ねて、南のロソムの高みで午後を過ごす。
【モン・サン・ジャンの十字路】盤の中央上、Mont-St-Jean と書かれた十字路がこの盤で一番重い点(44点)で、開幕はウェリントンのものである。ここを抜かれれば背後はブリュッセルへの街道一本しかない。稜線の向こう側は見えない――ウェリントンは兵の大半を逆斜面に伏せさせ、砲弾を丘に食わせた。
【ウェリントンの勝ち方】盤は点差 プラス78 から始まる。稜線の上のものは全部ウェリントンが持っているからである(十字路44、ラ・エ・サント28、メルブ・ブレーヌ20、モン・サン・ジャン農場16、パプロット16。フランスが持つのはラ・ベル・アリアンス30とロソム16だけ)。【勝利線】は プラス86。つまり**守り切るだけでは足りない**。稜線を一つも渡さず、そのうえで削り合いに8点勝ち越して、はじめて勝ちになる。逆に言えば、ラ・エ・サントを一つ落とすだけで点差は56動いて プラス22 になる――そこから取り返せなければ、その時点でフランスの勝ちである。
【ナポレオンの勝ち方】点差を勝利線の下に抑えたまま日が暮れればよい。ただし手が足りない。フランス軍は36体で、盤の上で一番数が多い。にもかかわらず一度に動かせるのは**12体**で、連合軍と同じである。そしてフランス軍には、同時に押さえなければならない場所が四つある――西のウーグモン、中央のラ・エ・サント、稜線そのもの、そして背後のプランスノワ。攻める側だけが、行き先を選ばなければならない。史実でも、正面はネイに委ねられ、命令は一通ずつしか出て行かなかった。
【ウーグモン】盤の西、Hougoumont の城館に旗が立っている。勝利点は一点も付いていない。フランス軍が押さえているあいだ、一度に動かせる駒が12から15に増えるだけである。壁のある石造の屋敷で、守っているのは中に居る兵ではなく――中は空いている――南の林のマクドネルと、北東の果樹園のビングである。城館の周りは林と果樹園と壁のある庭園で、足が遅くなる(防御は上がらない)。西で両軍の戦列が正面から噛み合わないのは、この囲い地のためである。史実では、ここは牽制のはずだった。それがジェローム・ボナパルトの意地になり、レイユ軍団の大半が一日中この一軒の農家に吸い込まれた。餌は両軍から見えている。見えていて、それでも毎ターン迷う。
【プランスノワ】盤の南東、Plancenoit の村にも旗が立つ。こちらは向きが逆である。**プロイセン軍がこの村を押さえているあいだ、フランス軍の枠は12から9に減る**。連合軍には何も起きない。手が減るのであって、点が動くのではない。史実では、東から現れたプロイセン軍に対してロボー軍団が向きを変え、次いで青年近衛が丸ごと送られ、最後には古参近衛の二個大隊までが村の墓地の奪い合いに費やされた。デュエムはそこで死んだ。稜線を攻める手が足りなくなった理由が、この村ひとつである。
【窪んだ道】連合軍の稜線には、十字路の東側だけ、道が土手のあいだに窪んで走っている(盤では柵の記号)。溝は南を向いた片側にしかない。ここに立って南から攻められる側だけが、戦闘力2倍で受けられる。デルロンの一万七千が登ってきたのは、ちょうどこの正面である。※後年ヴィクトル・ユゴーが書いた「胸甲騎兵が谷へ落ちて埋まった」という深い峡谷は、この道のことだが、実際の窪みはそこまで深くない。
【プロイセン軍】盤で**黒い駒**がプロイセン軍である。連合軍と同じ陣営だが、別の軍で、開幕には盤に居ない。ビューローの第IV軍団がT7(16時)に南東のラーヌの隘路から、ツィーテンの第I軍団がT10(18時15分)に北東のスモアンから入ってくる。彼らは十一時間、泥の中を歩いてきた。盤の東南の湿地は、その泥である。
【指揮官】連合軍:ウェリントン公アーサー・ウェルズリー。右翼はヒル、近衛師団のクック、第1近衛旅団のメイトランド、ウーグモンのビングとマクドネル。クリントン、軽歩兵旅団のアダム、ミッチェル。蘭ベルギー軍はシャセ、ペルポンシェ、前斜面に置かれたベイランド。中央はアルテン、KGL旅団のオンプテダ、ラ・エ・サントを守るバリング、ハノーファーのキールマンゼッゲ、ハルケット。左翼はピクトン、ケンプト、パック、フィンケ、予備のランバート、パプロットのザクセン=ワイマール公ベルンハルト。オラニエ公ウィレムはこの日22歳で第I軍団を持っていた。騎兵はサマセットの近衛騎兵旅団とポンソンビーのユニオン旅団、ヴァンドルール、ヴィヴィアン。砲兵はマーサー、ブル、サンダム。プロイセン軍(黒い駒):ブリュッヘル、ビューロー、第15旅団ロスティン、第16旅団ヒラー、ハッケ、リッセル、プロイセン公ヴィルヘルム。第I軍団はツィーテン、シュタインメッツ、ヤーゴウ、レーダー。
フランス軍:ナポレオン。正面の指揮はネイ元帥。第II軍団レイユ、ジェローム・ボナパルト、フォワ、バシュリュ、ウーグモンの林で死ぬボーダン、騎兵のピレ。第I軍団デルロン、キオ、ブルジョワ、ドンズロ、マルコニェ、デュリュット、騎兵のジャキノ。八十門の大砲兵中隊と、砲兵司令官リュティ。第VI軍団ロボー、シメール、ジャナン、東を向いた騎兵のドモンとシュベルヴィ。騎兵予備はミロー、ドロール、ケレルマン、レリチエ、ブランカール。近衛はフリアン、モラン、ミシェル、カンブロンヌ、青年近衛のデュエム、墓地を奪い返すプレ、近衛騎兵のルフェーヴル=デヌエットとギヨー、近衛砲兵のデヴォー。
【この八時間で決めること】ナポレオン――西のウーグモンへ何体入れるか。入れれば手が増え、稜線を攻める兵が減る。プランスノワに何体残すか。残せば正面が薄くなり、残さなければT7以降に手が三つ減る。そして稜線には正面から登るしかない――窪んだ道の区間だけは、受ける側が2倍である。ウェリントン――逆斜面から一歩も出ない限り安全だが、それでは勝利線に届かない。左翼はプロイセン軍が来るまで自分で持たせるしかなく、右翼のヒル軍団を中央へ寄せれば、西が空く。
【結末】ウーグモンの門は閉じられた。中庭に飛び込んだフランス兵は皆殺しになり、城館は日暮れまで落ちなかった――ウェリントンはのちに「勝敗はウーグモンの門を閉めたことにかかっていた」と言っている。一時半、デルロンの一万七千が登り、ピクトンの師団に止められた。ピクトンはその直後に頭を撃たれて死ぬ。続いて出た英軍の重騎兵二個旅団は敵の隊列を粉砕し、そのまま大砲兵中隊まで駆け抜けて、槍騎兵に囲まれて壊滅した。ポンソンビーは戻ってこなかった。四時、ネイは歩兵を伴わずに騎兵だけを稜線へ送り、二時間のあいだに十度以上突撃して、方陣を一つも割れないまま騎兵を使い果たす。四時半、パリの森からプロイセン軍の砲が鳴った。ロボーが向きを変え、青年近衛が送られ、プランスノワが何度も持ち主を変える。六時過ぎ、ラ・エ・サントの弾薬が尽きた。バリングは四十二人で出てきた。中央に穴が開き、そこへ据えられたフランス軍の砲が至近から撃ちはじめる――ここが一番危なかった。だがナポレオンには、その穴に注ぎ込む兵がもう残っていなかった。プランスノワにいたからである。七時過ぎ、最後に近衛が正面へ出た。伏せていたメイトランドの近衛旅団が立ち上がって撃ち、アダムの軽歩兵が横から巻いた。近衛が退いた。それを見た軍が崩れた。東からツィーテンが来て、連合軍の左とつながった。ブリュッヘルとウェリントンはラ・ベル・アリアンスの前で会い、追撃はプロイセン軍が引き受けた。一日で四万二千が倒れている。ナポレオンは六月二十二日に退位し、百日天下は終わった。ネイは十二月に銃殺される。ウェリントンは戦場を見て泣き、「勝った戦の翌朝ほど惨めなものはない」と書いた。そして翌日、ブリュッセルでクリーヴィーにこう言い直している――「際どいことだった。あんなに際どいものは見たことがない」。
地面が乾くのを待って、砲が動いたのは十一時半だった
ウーグモンの門は閉じられ、そこへ一個軍団が吸い込まれていった
ネイは歩兵を連れずに十度以上突撃し、方陣を一つも割れなかった
四時半、パリの森から別の軍の砲が鳴った
ラ・エ・サントは落ちた。だが穴を埋める兵は、村の墓地にいた
近衛が退いた――この日はじめて、そして最後に
前日までの機動(カトル・ブラ、リニー、ワーヴルへの退却)と、日没後の追撃は畳んだ。盤は正午前の砲撃開始から、近衛が出る七時までの八時間だけである。師団・旅団は一体から三体にまとめてある。兵力は人数ではフランス72,000対連合68,000+プロイセン50,000だが、盤の戦闘力ではフランス134、連合108、プロイセン42にしてある――蘭ベルギー・ハノーファーの国民軍の目盛りを人数より下げ、古参の仏軍師団と近衛を上げ、そしてプロイセン軍は「盤が終わる七時までに実際に戦場へ出ていた分」だけを載せたためである。西のブレーヌ・ラルーに置かれていた一万七千(コルヴィル師団とオランダ軍の一部)は、この日一度も戦っていないので盤に載せていない。
1ヘクス=200m、1ターン=45分、1CS≒600名。T1=6/18 11:30(ウーグモンへの最初の砲)、T4=13:45(デルロンの攻撃)、T7=16:00(ネイの騎兵突撃とビューロー軍団の到着)、T10=18:15(ラ・エ・サント陥落)、T11=19:00(最終ターン。近衛の突撃。終わりは19:45)。一度に動かせるのは両軍とも12駒(連合軍はT7から15駒。フランス軍はウーグモンを取れば15駒、プランスノワを失えば9駒)。
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