河東一乱
1545年 · 日本 中量
今川・武田軍 — 北条軍 · 9ターン · 駒 47
ブリーフィング
「十六日丙子辰刻吉原自落」
「十六日、辰の刻、吉原が自ら落ちた」──駒井高白斎『高白斎記』天文十四年九月条(武田晴信の家臣の陣中日記)
長窪の城を抱えて持つか。兵を箱根の向こうへ返すか。北条氏康には敵が二つあった。西から今川義元と武田晴信、そして箱根の向こうでは、両上杉と古河公方が北条の河越城を囲んでいる。九月十六日、北条は吉原の城を戦わずに捨て、浮島ヶ原の沼を抜けて黄瀬川の後ろへ下がった。盤はその四日後、高白斎記が「義元ハ長窪」と書いた九月二十日から始まる。今川の本隊は Nagakubo Castle の西の愛鷹の裾に、晴信の甲斐勢は Okanomiya に陣を置いている。北条は城と、黄瀬川の東の岸と、Mishima にいる。増援は無い。
【長久保城】城の升は要塞である。籠った駒は敵に隣接されても攻めなくてよく、後退の結果を受けずにその場に留まる。落とすには囲んで削り切るしかない。Kise River は盤を北から南へ縦に割り、渡って攻めれば守る側が二倍になる。
【動かない北条】北条の十九体のうち十三体は待機部隊である。城とその東の岸の六体、黄瀬川の線の七体。どちらの組も、敵に隣接されるか攻撃されるまで自分からは動けず、起きるときは組ごとまとめて起きる。自由に動けるのは、後ろの小田原衆と相模衆の六体だけである。
【気の乗らない武田】晴信の甲斐勢の九体(武田晴信・板垣信方・栗原衆・向山衆・甲斐衆五体)も待機部隊である。晴信は義元の求めに応じて駿河へ出てきたが、北条と本気で刃を交える気は薄く、最後は雪斎とともに両軍の仲立ちに回った。武田の組は、敵に隣接されるか攻撃されたとき、あるいは黄瀬川の線の北条七体が起きたときに、組ごとまとめて起きる。逆に武田の組が起きれば、黄瀬川の線の北条も同じときに起きる。二つの組は互いに連動している。城の組の六体が起きても、武田は起きない。
【箱根路】北条の駒は、Mishima から東へ上る東海道の出口(盤の東の縁の三升)から盤の外へ出られる。出た駒は戦闘力1につき2点。駿河の兵を河越へ返したということである。
【点差と勝利線】画面の「点差」は今川・武田から見た一本の数字である。持っている地点の点の差に、与えた損害から受けた損害を引いたものを足す。北条が箱根路から出した点は北条の側に入る。開幕の点差は −70(Nagakubo Castle 40点と Mishima 30点が北条)。勝利線は −80。終了ターンの点差が −80 以上なら今川・武田の勝ち、下なら北条の勝ちで、線からのひらきが大きいほど勝ちの級が上がる。
つまり、何も起きなければ今川・武田が勝つ。北条は城を持っているだけでは足りない。受けた以上の損害を与えるか、兵を関東へ返すかして、点差をあと十一点以上押し下げなければならない。今川・武田は城か三島を一つ落とせば大きく楽になるが、無理に攻めて損害を重ねれば、それだけ北条に点を渡す。
【一度に動かせる駒】今川・武田は二十八体のうち六。九ターンで城を囲んで削り切るには、どの六体をどの順に寄せるかを選ぶことになる。ただし武田の九体が眠っているあいだ、実際に寄せられるのは今川の十九体である。北条は十九体のうち十二だが、十三体が眠っているあいだは六体ぶんしか使い道が無い。
【指揮官】今川・武田:Imagawa Yoshimoto=今川義元/Taigen Sessai=太原雪斎(臨済寺の僧・義元の軍配。和睦の座にも出た)/Asahina Yasuyoshi=朝比奈泰能(掛川城主)/Okabe Chikatsuna=岡部親綱/Matsui Sadamune=松井貞宗(二俣の城主)/Fuji Nobutada=富士信忠(富士大宮司)/Kazurayama Ujimoto=葛山氏元(前年に北条を離れて今川へ付いた)/Takeda Harunobu=武田晴信(のちの信玄)/Itagaki Nobukata=板垣信方/Kurihara Band・Mukoyama Band=栗原・向山(高白斎記に姓だけが出る)。
北条:Hojo Ujiyasu=北条氏康/Hojo Genan=北条幻庵(早雲の末子。長久保の城将の一説)/Hojo Tsunataka=北条綱高/Matsuda Morihide=松田盛秀(宿老)/Daidoji Morimasa=大道寺盛昌/Tame Mototada=多目元忠/Kasahara Tsunanobu=笠原綱信(伊豆郡代)/Shimizu Tsunayoshi=清水綱吉。
朝比奈・岡部・松井・富士・綱高・松田・大道寺・多目・笠原・清水の十人は、同じ時期の家中の重臣として置いた。この戦役の陣中にいたと書く史料は、作者は確かめられていない。駒になっていない人:北条綱成(河越城に籠っている)/駒井高白斎(この戦役の日記を書き、十月十五日に板垣・向山と三人で氏康の陣所へ使いに行った)。
【この盤で試せる判断】
一、関東へ、いつ、何体返すか。後ろの六体を早く出せば点は稼げるが、三島の後ろが空く。遅ければ、箱根路の出口を今川に塞がれる。
二、城の囲みを急ぐか。城へ寄せるほど、川の東で眠っている北条を起こす。
三、黄瀬川を渡るか。渡れば川の辺で二倍の守りに当たる。渡らなければ、城と三島の七十点は北条のまま動かない。
四、起こされた北条は、城を救いに川を渡るか。史実の氏康は渡らなかった。
五、黄瀬川の線を起こすか。川の線の北条を起こせば、岡宮の武田も目を覚まして加わる。起こさずに城だけを囲めば、武田は動かないまま盤が終わることもある。史実の晴信は、刃を交えるより仲立ちを選んだ。
【結末】九月二十七日、晴信は黄瀬川に橋を掛けさせた。だが長窪の城は落ちなかった。十月十五日、板垣と向山と高白斎の三人が桑原の氏康の陣所へ出向き、二十二日、両軍は矢を止めた。二十四日、晴信と雪斎の仲立ちで今川と北条は和を結び、十一月六日、北条は長久保城を明け渡して富士川から東を今川へ返した。氏康は兵を関東へ向けた。翌天文十五年四月、八万と号した上杉・古河公方の囲みを、わずかな兵の夜討ちで破った。河越の夜戦である。扇谷の上杉朝定はその夜に討たれ、家は絶えた。九年後、甲斐と相模と駿河は互いに娘を嫁がせ合い、三つの家は背中を預け合った。
城は、落ちずに渡された
矢は、二十二日に止まった
箱根を越えた兵は、河越の夜に間に合った
背中を預ける約束は、この冬の和睦から始まる
九月十六日から十九日までの吉原・今井・千本松の陣は、盤の前に済んだこととした。十月の使者の往来と停戦は盤の上の出来事にしていない。兵力はどの資料にも数が無く、1CS の人数は作者の置き方である。海岸線は、田子の浦港・沼津港の造成を戻して推した線である。
1ヘクス=900m、1ターン=4日、1CS≒200名。T1=9/20(義元ハ長窪)、T2=9/24(二十七日に黄瀬川の橋)、T7=10/14(十五日に使者が桑原へ)、T8=10/18(二十日に長窪の城を見分)、T9=10/22(互ニ矢留)。
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