シナリオ

姉川の戦い

1570年 · 日本 中量

織田・徳川軍 — 浅井・朝倉軍 · 9ターン · 駒 54

ブリーフィング

可為虚説 「それは嘘であろう」――妹婿の浅井長政が背後に回ったと告げられたときの、信長の最初の言葉(『信長公記』巻三・金ヶ崎) この戦いには名前が三つある。織田方はこれを野村合戦と呼び、浅井・朝倉方は三田村合戦と呼んだ。姉川という川の名で呼んだのは徳川方で、その呼び方だけが残った。 元亀元年六月二十八日、北近江。二か月前の金ヶ崎で背中を取られた信長は、この月、小谷城の南にある横山城を囲んでいる。小谷を直に攻めるのは重いと見て、まず南の押さえを取りに来たのである。徳川家康が三河から五千を率いて着いた。越前の朝倉義景は自分では出ず、一族の朝倉景健に八千を付けて送った。前夜、浅井・朝倉は盤の北東の大依山に陣を置き、明け方に降りて姉川の北岸へ出る。浅井勢は東の野村へ、朝倉勢は西の三田村へ。織田が浅井と、徳川が朝倉と、同じ川をはさんで別々に向かい合う形ができた。朝六時、両軍が河原へ降りる。 【河原】盤の中央を東西に走る桃色の帯が姉川の河原である。村も林も丘も無い。渡って攻めれば守る側が戦闘力2倍になるが、渡し(橋)の正面だけはその2倍が付かない。そして盤にある渡しは二つしかない――東の野村の渡(織田対浅井、河原の名は血川)と、西の三田村の渡(徳川対朝倉、河原の名は血原)。血原・血川は戦いのあとに付いた地名で、今も地図に残っている。どちらも25点の中立で、開幕の点差がちょうど0なのはこの二つが誰のものでもないからである。 【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。勝敗の境目は織田・徳川方+55点。織田・徳川方は+67点以上のリードで勝ち、浅井・朝倉方は織田・徳川方のリードを+43点以下に抑えれば勝ち。その間は引き分けである。境目からさらに100点で作戦的勝利、200点で圧倒的勝利(浅井・朝倉方から見れば−45点・−145点)。盤の拠点は全部で150点。南岸の龍ヶ鼻(30点・信長の本陣)と岡山(20点・家康の陣)が織田方、北岸の野村(25点)と三田村(25点)が浅井方、河原の血川と血原(各25点)が中立で、開幕の点差は0である。二万八千で一万八千を受けたのだから、押し返しただけでは勝ちではない――河原の渡しを二つとも取っても+50で、まだ引き分けの帯である。北岸の村を取るか、削り合いで勝ち越すか、どちらかを八時間でやり切って初めて勝ちになる。 浅井・朝倉方は、リードを+43点以下に抑えたまま午後二時を迎えればよい。浅井13体・朝倉11体の24体で、一度に動かせるのは10体。相手は30体で12体だが、そのうち2体分は南の城に縛られている。 【横山城】盤の南、Yokoyama の城に旗が立っている。勝利点は一点も付いていない。浅井方がこの城を持っているあいだ、織田・徳川が一度に動かせる駒が12から10へ減るだけである。二万八千を持ちながら信長が備を十三に分けて逐次に出したのはなぜか――後ろに、落ちていない城が一つ残っていた。城の脇にいる稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の西美濃三人衆が押さえで、彼らを川へ回せば戦線は厚くなるが、押さえの戦闘力が9を切ると城兵(三田村国定・野村直隆・大野木秀俊)が動き出す。城を落とせば手は戻る。だが落とすための兵は、川から引くしかない。 【大依山】盤の北東、Oyoriyama にも旗が立つ。ここも勝利点は0点。織田が押さえれば、一度に動かせる駒が12から15へ増える。前の晩、連合軍が陣を置いていた山である。取りに行けば右翼が川を渡って北東へ伸び、そのぶん野村の正面が薄くなる。餌は最初から両軍に見えている。見えていて、それでも毎ターン迷う。史実の信長は行かなかった。 【札の色】同じ陣営でも家ごとに札の地色が違う。茶が織田、緑が徳川、藍が浅井、葡萄が朝倉である。この盤は東西で別々の戦いが同時に進むので、どの家がどこにいるかが読めないと形が見えない。 【指揮官】織田方:織田信長(龍ヶ鼻の本陣を三駒に割ってある)。前備は一番の坂井政尚、池田恒興、木下秀吉、柴田勝家、九月に宇佐山で討死する森可成、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂屋頼隆。母衣衆の前田利家と佐々成政。竹中重矩――半兵衛の弟で、遠藤直経を討ち取る男。横山の押さえに西美濃三人衆の稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就。徳川方:徳川家康(岡山。戦いのあと勝山と呼ばれる)、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、朝倉勢の側面へ回る榊原康政、小笠原長忠、渡辺守綱。※坂井政尚(織田)と酒井忠次(徳川)は仮名が同じなので、札の色で見分けてほしい。 浅井方:浅井長政。先鋒は佐和山城主の磯野員昌――盤で唯一、開幕から渡しに足を突っ込んでいる駒である。首をひとつ提げて信長の本陣へ入り込む遠藤直経、浅井政澄、阿閉貞征、新庄直頼、安養寺氏種、今村氏直、弓削家澄、鹿伏兎宗心。横山城の城兵は三田村国定・野村直隆・大野木秀俊――北岸で今まさに戦端が開こうとしている二つの村が、そのまま彼らの姓である。朝倉方:総大将の朝倉景健(義景は越前を動いていない)。大太刀の真柄直隆と、弟の直澄、子の隆基。前波景当、黒坂景久、小林端周軒、魚住景固。 【この八時間で決めること】信長――横山城を落としに行くか(手が二つ戻る。その二つを作るために川から兵を引く)。大依山へ手を伸ばすか(三つ増える。右翼が川の向こうへ伸びる)。家康――五千で八千を引き受けたまま、康政を側面へ回す隙を作れるか。長政――磯野を渡しへ突っ込ませるか。渡しの正面だけは、守る側の2倍が付かない。景健――三田村を守り切れるか。朝倉が崩れた瞬間に、浅井の西の肩が空く。 【結末】正午を過ぎて、榊原康政が朝倉勢の側面へ回った。朝倉が崩れ、続いて浅井が崩れる。横山を見張っていた西美濃三人衆も川へ向かって浅井勢の横腹を衝いた。討ち取った首は千百あまり。真柄の三人は大太刀を置いて河原に残り、遠藤直経は織田の陣の中で竹中重矩と組み合って死んだ。信長は小谷城の五十町ほど手前まで追い、そこで引き返して横山城下へ戻る。城は翌日に降り、木下秀吉が城番として入った――盤の南の隅にあるあの城が、三か月後の秀吉の居場所である。小谷を一息に落とすのは無理だと見たのである。事実そのとおりで、この勝ちは何も終わらせなかった。三か月後、浅井・朝倉は比叡山に籠り、信長は山を囲んだまま二か月動けなくなる。森可成はその戦いで宇佐山城に討死する。翌年、この日の先鋒だった磯野員昌は佐和山で孤立して信長に降った。小谷城が落ちて浅井家が滅びるのは、この河原から三年後。朝倉家はその二十日前に滅んでいる。   虚説たるべき、と言った男が、二か月後に川へ出た   野村と三田村、名は二つ、川の名で呼んだのは三河の者である   磯野は十一段まで来て、十二段目で止まったという   真柄の三人は大太刀を置いて、河原に残った   血原、血川――今も地図にその名がある   浅井が滅ぶまで、あと三年 前日までの対陣と、日没後の追撃・翌日の横山城の開城は畳んだ。盤は明け方の六時から午後二時までの八時間だけである。備・手勢は一体から三体にまとめてある。兵力は人数では織田23,000+徳川5,000に対し浅井・朝倉18,000だが、盤の戦闘力では織田81・徳川32に対し浅井46・朝倉41にしてある――五千で八千を引き受けた徳川勢と、この日いちばんよく戦った浅井・朝倉の目盛りを、人数より上げたためである。人数には諸説あり、織田を10,000とする資料も35,000とする資料もある。磯野員昌が織田の十三段の備を十一段まで崩したという有名な話は十七世紀後半の『浅井三代記』にしか無く、後世の創作という見方が強い――盤では先鋒の磯野を渡しの北に置いて戦闘力を5にしてあるだけで、十一段まで行けるかどうかは遊ぶ人が決める。 1ヘクス=200m、1ターン=60分、1CS≒250名。T1=6/28 06:00(両軍が河原へ降りる)、T4=09:00、T7=12:00(榊原康政の側面攻撃はこのあたり)、T9=14:00(最終ターン。終わりは15:00)。一度に動かせるのは織田・徳川が12駒(横山城を持たれているあいだは10駒、大依山を取れば15駒)、浅井・朝倉が10駒。

地図

周辺図(概略) 姉川 小谷城(浅井) 横山城 長浜 → 岐阜へ 琵琶湖 越前へ(朝倉) 姉川
周辺図(概略)
戦場図(概略) 野村の渡り 三田村の渡り 浅井(北岸) 朝倉(北岸) 織田(南岸) 徳川(南岸) 姉川 横山城
戦場図(概略)