立河原の戦い
1504年 · 日本 重量
扇谷上杉・今川・伊勢 — 山内上杉・古河公方 · 12ターン · 駒 84
ブリーフィング
戦死した者は数知れず
――山内上杉方の毛呂顕季が書き残した言葉(要旨)
武蔵の国、多摩川。永正元年9月27日の辰の刻(朝8時)、扇谷上杉朝良の軍が多摩川を渡り、北の岸の立河原に上がった。南の岸には、駿河から来た今川氏親と、小田原の伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍が続いている。少なく、強い。
北では、河越の城を囲むのをやめて南へ出てきた山内上杉顕定の軍が、立川の館の方から駆けつけてくる。東の府中からは、顕定と手を結んだ古河公方足利政氏の軍が来る。両軍は睨み合い、正午ごろから夕方まで戦うことになる。
【連合軍の勝ち方】一度に動かせるのは14駒。扇谷の16駒は北岸の河原に、今川・伊勢の24駒は南岸の日野・万願寺の辺りにいる。多摩川は渡し場(築地・日野・万願寺・関戸)の4か所でしか渡れない。拠点は立河原(30点)・日野(10)・関戸(10)を持って始まり、山内方の立川の館(20)・谷保(10)を取れば点差が開く。勝利線は+55。連合軍から見た点差が+55を上回れば、史実よりよく戦ったことになる。
【山内上杉・古河公方の勝ち方】一度に動かせるのは14駒。開幕に盤上にいるのは先手の8駒だけで、残りはT2〜T6に北の縁(河越・入間から)と東の縁(府中から)へ着く。渡り終えていない今川・伊勢の前に、河原の扇谷を押し返して川へ落とすこと。
【指揮官】連合軍:上杉朝良(Uesugi Tomoyoshi・扇谷上杉の当主)/上田正忠(Ueda Masatada・相模守護代)/長井広直(Nagai Hironao・椚田城主)/今川氏親(Imagawa Ujichika・駿河守護)/朝比奈泰熙(Asahina Yasuhiro)・福島助春(Kushima Sukeharu)=遠江から来た今川の重臣/伊勢宗瑞(Ise Sozui・北条早雲)/大道寺重時(Daidoji Shigetoki)。
山内上杉・古河公方:上杉顕定(Uesugi Akisada・関東管領)/足利政氏(Ashikaga Masauji・古河公方)/長野房兼(Nagano Fusakane)・長尾房清(Nagao Fusakiyo)=この日討死/毛呂顕季(Moro Akisue)/千葉勝胤(Chiba Katsutane・『千葉伝考記』だけが援軍を伝える)。
【この盤で試せる判断】
・(連合)今川・伊勢をどの渡し場から渡すか。近い日野か、山内方の来ない万願寺か、東の関戸から府中の古河勢へ回るか。
・(連合)河原の扇谷を前へ出すか、援軍が渡り終えるまで河原で待つか。
・(山内)着いた順に河原へ打ちかかるか、北の台地にそろうまで待つか。待てば今川・伊勢が渡り終える。
【結末】多摩川の渡河を許した山内方は、正午から夕方までの合戦で崩れ、潰走した。戦死は二千に及び、当時の合戦では稀な数だった。長野房兼と長尾房清が討たれ、顕定は北武蔵の鉢形城へ逃れた。ところが勝った朝良の側も兵を休める間に、越後守護代の長尾能景が顕定のもとへ着き、11月から河越城が再び囲まれた。12月には椚田城と実田城が落ちて扇谷と今川・伊勢の領地が切り離され、翌永正2年3月、朝良は顕定に降った。勝った側が降って、長享の乱は終わった。今川・伊勢の兵は10月4日にはもう鎌倉へ引き揚げ、宗瑞は韮山で戦死者の法要を営んでいる。宗瑞が関東の合戦に本格的に足を入れた戦いである。
辰の刻、多摩川を渡った
河原の上に、扇谷の旗が立った
南の岸には、駿河と伊豆の兵が続いた
北と東から、管領と公方が駆けつけた
正午から夕方まで、河原で戦った
勝った者は、翌年の春に降った
両軍の兵数を伝える確かな史料は無い。駒の数と強さは、今川・伊勢の援軍を「少なく強い」と置き、山内方を時間差で着く形で書いた。多摩川の渡し場の位置は近世の渡しから取った(この日どこで渡ったかは伝わらない)。
1ヘクス=300m、1ターン=45分、1CS≒300名。T1=9月27日08:00(辰の刻)、T6=11:45、T12=16:15。
地図
立河原
河越城(扇谷)
白子(山内の陣)
枡形城(宗瑞・氏親)
小田原
江戸城
→ 鉢形・上野
→ 古河
多摩川
江戸湾
相模
武蔵
今川・伊勢の援軍(9月)
立川の館(普済寺)
立河原(辰の刻に渡河)
谷保
日野
関戸(→ 枡形・鎌倉)
多摩川
渡し場(築地・日野・万願寺・関戸)
山内上杉(北から)
古河公方(府中から)
今川・伊勢(南岸)