シナリオ

六日間の戦役

1814年 · ヨーロッパ 重量

フランス軍 — 連合軍(シレジア軍) · 15ターン · 駒 68

ブリーフィング

« J'ai retrouvé mes bottes d'Italie. » 「わたしはイタリアの長靴を取り戻した」――一八一四年二月、ナポレオンがこう言ったと伝えられる。十八年前、二十六歳の司令官として、分かれて進む敵を一つずつ叩いた戦役のことである。 一八一四年二月。フランスは東から攻め込まれている。ブリュッヒャーのシレジア軍五万余はパリへ急ぐあまり、マルヌ川の南の一本の街道に沿って、四つに分かれて伸びていた。西の先頭にザッケンのロシア軍、その北のマルヌ沿いにヨルクのプロイセン軍団、真ん中のシャンポベールにオルスーフィエフの小さな軍団、東のヴェルテュにブリュッヒャー本人とクライスト、カプツェヴィチ。互いに一日の行程ずつ離れている。 ナポレオンの手許には三万しか無い。だがその三万は、セザンヌから北へ出る道の上で一つにまとまっていた。冬の泥の中を、街道の真ん中へ向かって。 【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。拠点は八つで一五〇点:モンミライユ三〇・シャンポベール二五・シャトー=ティエリ二五・エトージュ二〇・ヴォーシャン一五・ヴェルテュ一五・フロマンティエール一〇・エペルネ一〇。連合軍は最初に九五点を握り、モンミライユとヴォーシャンとフロマンティエールは誰のものでもない。フランス軍から見た点差が勝利線(-25点)より上で終われば勝ち、下なら連合軍の勝ち。線から12点離れれば戦術的勝利、93点で作戦的勝利、187点で圧倒的勝利。12点に届かなければ引き分けである。拠点だけでは届かない。分かれた敵を一つずつ潰して、損害の差で稼ぐ盤である。 【起きない軍】ヴェルテュのブリュッヒャー本隊(クライストのプロイセン第二軍団、カプツェヴィチのロシア第十軍団)は待機している。二月十三日の朝(T9)に目を覚まし、攻められればその場で起きる。それまでに西の三つを片づけられるかどうかが、この盤の全部である。 【援軍】T12(二月十四日の朝)、スペインから回されたルヴァルの師団が南の縁、ル・ゴーの道から着く。 【一度に動かせる数】フランス軍は二〇。連合軍は一四で、T9(本隊が起きる)に六が加わる。一ターンは昼の四時間で、夜は飛ばす。冬の泥で、歩兵は一ターンに四升しか歩けない。 【指揮官】フランス軍:Napoleon=ナポレオン、Marmont=マルモン(第六軍団・リカール、ラグランジュ)、Ney=ネイ(若年近衛・ムニエ、キュリアル)、Mortier=モルティエ(古参近衛・フリアン、ミシェル)、Drouot=ドルーオ(近衛砲兵)、Nansouty=ナンスティ(近衛騎兵・コルベール、ラフェリエール、ルフェーヴル=デヌエット、ドフランス、ギュイヨ)、Grouchy=グルーシー(騎兵・サン=ジェルマン、ボルドスール)、Doumerc=ドゥメルク、Leval=ルヴァル。 連合軍:Bluecher=ブリュッヒャー、Olsufiev=オルスーフィエフ(ロシア第九軍団・ウドム、コルニーロフ)、Sacken=オステン=ザッケン(リーヴェン、タリジン、ヴァシリチコフの騎兵)、Yorck=ヨルク(プロイセン第一軍団・ピルヒ、ホルン、カール公子、ヴィルヘルム公子、ユルガス)、Kleist=クライスト(プロイセン第二軍団・ピルヒ二世、ツィーテン、アウグスト公子、レーダー)、Kaptzevich=カプツェヴィチ(ロシア第十軍団・ウルソフ、トゥルチャニノフ)。 【この盤で試せる判断】ひとつめ(フランス)。どの順に叩くか。史実は真ん中(シャンポベール)、西(モンミライユ)、北(シャトー=ティエリ)、東(ヴォーシャン)の順だった。真ん中を先に取れば、残りの三つは互いに助けに来られない。 ふたつめ(フランス)。叩いた敵をどこまで追うか。追えば損害が稼げるが、追った分だけ次の敵から遠くなる。 みっつめ(連合)。散った軍を、どこで寄せ集めるか。逃げる先は一本の街道の両端と、北のマルヌの橋しか無い。 【結末】二月十日、シャンポベールでオルスーフィエフの軍団は潰され、本人は捕虜になった。十一日、ナポレオンは西へ向きを変えてモンミライユでザッケンとヨルクを破り、十二日にはシャトー=ティエリまで追ってマルヌの北へ追い落とした。十三日、ようやく動き出したブリュッヒャーが西へ寄ってくる。十四日、ヴォーシャンでマルモンとグルーシーの騎兵がそれを迎え、方陣のまま退くプロイセン軍を夕方まで削り続けた。六日で四つの勝ち、連合軍の損害は戦闘で一万七千を超え、フランス軍は三千四百だった。 だが同じころ、南ではシュヴァルツェンベルクのボヘミア軍がセーヌ川に沿ってパリへ近づいていた。ナポレオンは南へ駆け戻らなければならなかった。六週間のち、パリは落ち、四月六日に皇帝は退位する。   一本の街道に、四つの軍が伸びている   三万が、その真ん中へ出る   十日、十一日、十二日   起きるのが遅かった本隊を、十四日に   イタリアの長靴を、取り戻した   そして、六週間 二月十五日以降の追撃、シュヴァルツェンベルクの軍との戦い(モルマン、モントロー)は盤の外である。仏軍は師団を、連合軍は軍団の師団・旅団を一駒ないし二駒にまとめた。騎兵は師団ごとに一駒。 1ヘクス=1.2km、1ターン=昼の4時間、1CS≒1,000名。T1=2/10 08:00(シャンポベール)、T4=2/11 08:00(モンミライユ)、T7=2/12 08:00(シャトー=ティエリ)、T9=2/13 08:00(ブリュッヒャーが起きる)、T11=2/14 08:00(ヴォーシャン)、T14=2/15 08:00、T15=2/15 12:00。

地図

周辺図(概略) 六日間の戦役 → パリ マルヌ川 セーヌ川 シャロン セザンヌ(ナポレオンが北へ出る) シュヴァルツェンベルク(ボヘミア軍)
周辺図(概略)
戦場図(概略) シャンポベール(2/10) モンミライユ(2/11) シャトー=ティエリ(2/12) ヴォーシャン(2/14) エトージュ ヴェルテュ(ブリュッヒャー) 一本の街道(連合軍が四つに伸びた) マルヌ川
戦場図(概略)