ヘイスティングスの戦い
1066年 · ヨーロッパ 軽量
ノルマン軍 — イングランド軍 · 9ターン · 駒 39
ブリーフィング
HIC HAROLD REX INTERFECTVS EST
「ここでハロルド王が討たれた」――バイユーのタピスリー第57場面の銘。刺繍したのは勝った側である
壁は壊れない。壊れるとしたら、壁のほうから降りてきたときだけである。この盤の九時間は、その一行を巡って進む。
1066年10月14日、イングランド南岸。九月末、ハロルド・ゴドウィンソンはヨークの北でノルウェー王を討ち取ったばかりだった。その報せが乾かないうちにノルマンディー公ウィリアムが南岸へ上がる。ハロルドは兵を集め直す間もなく南へ下り、13日の夕、カルドベック丘の「白髪のりんごの木」に軍を集めた。翌朝、彼はそこから南へ一キロ下った稜線に、肩を接して兵を並べる。騎兵はいない。射手もほとんどいない。降りない――それが彼らの戦い方だった。ウィリアムは朝、テラム丘で甲を着け、軍を三隊に分けた。左にブルターニュ勢、中央にノルマン勢、右にフランス・フランドル勢。どの隊も前列に射手を置いている。射て、歩兵で押し、騎兵で当てる。三度やって、三度とも壁は動かなかった。
【盾の壁】稜線の十ヘクス(Senlac Ridge から Harolds Standard を通って Santlache まで)には、南を向いた辺にだけ柵が立っている。その辺を越えて攻めるかぎり、守る側の戦闘力は2倍になる。北も東も西も向いていない。壁の値打ちは、丘の上に立っているあいだしか無い。
【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。勝敗の境目はノルマン軍−45点。ノルマン軍は点差を−36点以上にすれば勝ち、イングランド軍はノルマン軍の点差を−54点以下に抑えれば勝ち。その間は引き分けである。境目からさらに71点で作戦的勝利、141点で圧倒的勝利(イングランド軍から見れば−116点・−186点)。盤の拠点は全部で100点。盤は点差−67から始まる。丘の上の点は全部イングランドのものだからである(軍旗35、稜線の東西に16ずつ、カルドベック丘10。ノルマンが持つのはテラム丘の10だけ)。稜線に触れずに拾えるのは Malfosse の6と Asten Brook の7、合わせて13しかない――拠点だけでは−54で、引き分けにも届かない。つまり丘を抜く以外の道は無い。イングランド軍の側は、押し上げさせなければ勝ちである。丘の上に立っていること、そして王が立っていること、その二つである。Harol King の駒が壊滅した瞬間、場所も点数も残りターンも関係なく、イングランド軍は負ける。九ターンで日が暮れる。
【小丘の餌】盤の西、アステン川の向こう側に Hillock という高みがある。勝利点は付いていない。イングランドが押さえているあいだ、一度に動かせる駒が6から9に増えるだけである。基本の枠は18駒に対して6しかないので、これは大きい――枠が足りないから、壁の穴を塞ぎに行けないのだから。ただし取りに行くには丘を降り、川を渡ることになる。渡った先には盾の壁も辺の2倍も無い。史実では、崩れて逃げるブルターニュ勢を追って降りたフュルドが、この高みに立て籠もり、引き返してきた騎兵に囲まれて討たれた。ウィリアムはそれを見て、そのあと二度、わざと退いている。餌は両軍から見えている。見えていて、それでも毎ターン迷う。
【指揮官】ノルマン軍:ウィリアム2世。異父弟のバイユー司教オドとモルタン伯ロベール。右翼のブローニュ伯ユスタス2世とウィリアム・フィッツオズバーン。この日が初陣で右翼に立ったロベール・ド・ボーモン。左翼のブルターニュ勢を率いたアラン伯。ポワトゥのエメリ・ド・トゥアール。教皇旗を掲げたチュルスタン・フィッツロル。ウィリアム・マレ――戦いのあとハロルドの遺体を託されたと伝わる。ラウル・ド・トニ、ユーグ・ド・グランメニル、ユーグ・ド・モンフォール。従軍がほぼ確実なウォルター・ジファール、ウィリアム・ド・ワレンヌ、ウィリアム・デヴルーは駒数の都合で隊にまとめてある。剣を宙に投げながら先頭を進んだという吟遊詩人タイユフェールと、従軍したかどうかで記述の割れるロジェ・ド・モンゴメリーは、盤に出していない。
イングランド軍:ハロルド2世。弟のギュルス(イースト・アングリア伯)とレオフウィネ、ともにこの日討死する。ニューミンスター修道院長エルフウィグ――ハロルドの叔父で、鎖帷子を法衣の下に着た修道士十二人と兵二十人を連れて来て、そこで死んだ。あとは常備兵のハスカール、在地のセイン、州ごとに召集されたフュルドである。イングランド側で名前の残る兵は驚くほど少ない。サフォークの自由民ブレーメの名が分かるのは、二十年後の土地台帳に「ウィリアム王との戦いで死んだ」と一行あるからにすぎない。北のエドウィン伯とモーカー伯は、フルフォードで敗れたあと南へ間に合わなかった。彼らが着いていれば、この稜線はもっと長かった。
【この九時間で決めること】ウィリアム――射手(射程2)で削るのは安全だが遅い。騎兵(移動力5)で当てるのは速いが、壁の前では2倍を殴ることになる。裾の沼沢は騎兵の足を止める。8枠で、削りと押しは同時にできない。ハロルド――稜線は十ヘクス、手駒は18。全部を壁に貼れば背後の Caldbec Hill と Malfosse が空き、移動力5の騎兵はそこへ回る。追うか、追わないか。追えば手数が増え、増えた手数で塞ぐべき穴を、自分で開けることになる。
【結末】日暮れ前、ギュルスとレオフウィネが倒れ、最後にハロルドが倒れた。目に矢を受けたとも、騎士たちに斬り伏せられたとも伝わる。イングランド軍は暗くなるまで踏みとどまり、それから崩れた。追ったノルマン騎兵の一部は、稜線の裏の窪地――マルフォッセ、悪い溝――に落ちて死んだ。ハロルドの遺体は判別がつかず、かつての妻イーディス・スワンネシュが呼ばれたと伝わる。ウィリアムはその年のクリスマスにウェストミンスターで戴冠し、二十年後には島じゅうの土地を数え上げた台帳を作らせる。丘の上には修道院が建てられ、主祭壇は軍旗の立っていた場所に据えられた。ゴドウィン家の名は台帳から消え、土地の持ち主の欄はほとんど全部が海の向こうの名前に書き換わった。
日が暮れるまで、壁は南を向いていた
降りた者から順に、川の西で囲まれた
弟が二人倒れ、それから王が倒れた
ここでハロルド王が討たれた、と勝った側が糸で縫った
丘の上には修道院が建ち、祭壇は軍旗の場所に置かれた
この島の土地の持ち主の名が、全部書き換わるまで、あと二十年
上陸から二週間の機動と、十三日夜の行軍、戦いの後の追撃は畳んだ。盤は朝九時から日没までの九時間だけである。ノルマンの「射て、押し、当てる」三段は、駒の配置と射程で表してあり、三度の突撃をターンに割り当ててはいない。兵力は両軍とも七千から八千という近年の見積りの中央値を採り、ほぼ互角に置いた(人数もCSも1.04対1=ノルマン78・イングランド75。質の上乗せはしていない――この盤の非対称は盾の壁と開幕の点差と射程のほうに書いてある)。※フュルドの州名と、一部の武将の持ち場には、当時の召集の慣行からの推定を含む。
1ヘクス=100m、1ターン=60分、1CS≒100名。T1=10/14 09:00(開戦)、T5=13:00、T9=17:00(日没・終了)。一度に動かせるのはノルマン8駒、イングランド6駒(小丘を取れば9駒)。
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