シナリオ

桶狭間の戦い

1560年 · 日本 軽量 体験版に収録

今川軍 — 織田軍 · 9ターン · 駒 49

ブリーフィング

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり」――織田信長、出陣の朝に舞った幸若舞『敦盛』(『信長公記』) 盤に立つ今川の駒は三十三、織田は十六。数は倍以上ある。だが差は別のところにもある――今川で自分から動けるのは、織田の砦へ向かう前衛の十二と、鳴海城の二つだけである。残る十九は「待機部隊」で、条件が満たされるまで一歩も動かない――義元の本陣も沓掛の後続も、織田が隣に来るまで眠っている。織田は十六すべてを毎ターン動かせる。この盤の答えは、たぶんその一行に書いてある。 永禄3年5月19日(1560年6月12日)、尾張の東のはずれ。今川義元は二万五千を率いて西へ向かい、その前衛が朝のうちに丸根砦と鷲津砦を落とした。義元自身は桶狭間山の木立に幕を張り、人馬を休めている。織田信長はその朝、清洲を出て熱田を通り、丹下砦から善照寺砦へ入った。盤はその続きから始まる。だから信長は開幕の盤上にいない。北の縁の中央からT2に入ってくる――史実の信長は西寄りに丹下砦・善照寺砦を経ているが、この盤では北の中央から入る。これもこのシナリオのための裁定である。手勢は二千に足りない。 【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。この盤の勝利線は今川側の+20に引いてある。今川は点差+27以上で終えれば戦術的勝利(+79で作戦的、+138で圧倒的)、織田は点差を+13以下まで押し下げれば戦術的勝利(−39で作戦的、−98で圧倒的)。そのあいだ(+14〜+26)は引き分けである。開幕の点差は今川の+40。織田が開幕に持っているのは善照寺砦と中嶋砦の10点だけで、残りは桶狭間山(20)と田楽狭間(15)にある。拠点はひとつ動くと二重に効く――取った側に加わり、失った側から引かれる。だから今川は、桶狭間山か田楽狭間のどちらか一つを明け渡しただけで、点差で負ける。ただし善照寺砦と中嶋砦は、今川が取れば15点に数える(織田が持つ間は5点)。今川の前衛が砦を一つ奪うたびに、点差は20動く。 【首ひとつ】織田には点差と関わりのない道が一本ある――木立の中の「今川 義元」の駒を壊滅させれば、その瞬間に勝ちである(サドンデス)。今川にとっては、義元を生かしておくだけでは足りない。義元を下げて本陣を捨てれば、首は守れても点で負ける。 【義元の一駒】盤の中央から少し東、桶狭間山の木立に「今川 義元」がいる。この駒が壊滅した瞬間、今川軍は負ける。場所も点数も残りターンも関係ない。義元の駒は目を覚ませば、ほかの手勢と同じ足で下がれる。織田は、義元が下がる前に退路を塞いでから討たねばならない。周りを義元旗本二手と弓衆が囲み、由比正信・一宮宗是・久野元宗・蒲原氏徳・三浦義就――この日ここで討たれた将たちが陣を張っている。松井宗信と井伊直盛は前衛に出ていて、ここにはいない。 【盤の骨格】盤を東西に横切るのが手越川・扇川。渡って攻めれば守る側が2倍になり、その不利を負わずに済むのが四つの渡し(橋)で、うち一つが善照寺砦と中嶋砦のあいだにある。盤の南西いっぱいの深田は、当時ここまで来ていた鳴海潟である。中央から南東の低い起伏が有松の丘陵。桶狭間山は木立で、備えた陣ではない。田楽狭間は窪地で、地形の守りが付いていない。織田方の丹下・善照寺・中嶋の三砦には南と東を向いた柵が立つ――正面だけなので、横から回られれば効かない。鳴海城の岡部元信は信長の進路の真横にいる。史実で家臣が馬の轡を取って止めたのは、その道が城から丸見えだったからである。鳴海城は要塞で、中の駒は後退の結果を受けず、隣に敵がいても攻撃の義務を負わない。今川の前衛は川の北と有松の丘陵の西に出ていて、本陣へは一手では戻れない。 【西方勢】丸根・鷲津を落として休んでいる松平元康・朝比奈泰朝・本多忠勝・石川数正は、T5から動き出す判定に入る(25%、以後毎ターン25%ずつ上がる)。史実では最後まで動かなかった。動き出せば、織田の背中にある善照寺砦と中嶋砦が危ない。 【指揮官】今川軍:今川義元。旗本二手と弓衆。前衛に松井宗信(遠江二俣城主)、井伊直盛(井伊谷)。本陣に由比正信、一宮宗是、久野元宗、蒲原氏徳、三浦義就。前日に陣所を設けた瀬名氏俊。鳴海城に岡部元信と城兵。沓掛道の後続に葛山氏元、飯尾乗連(引間城主)、遠江衆、三河衆。西方に松平元康――のちの徳川家康――と朝比奈泰朝、初陣の本多忠勝、石川数正。大高城の鵜殿長照は盤の外。 織田軍:織田信長と馬廻二手。義元に槍をつけた服部小平太、首を取った毛利新介。出仕停止の身で駆けつけた前田利家。中嶋砦から先駆けして討死した佐々政次と千秋季忠。小姓衆の岩室長門守と長谷川橋介。熱田で加わった衆。砦は善照寺の佐久間信盛、中嶋の梶川平左衛門、丹下の水野帯刀・柘植玄蕃頭・山口海老丞。義元の所在を報じて一番の功に上がった簗田政綱は、兵を率いた記述が無いので駒になっていない。丸根で討たれた佐久間盛重、鷲津で討たれた織田秀敏・飯尾定宗は、盤が始まる二時間前に倒れている。 【この半日で試せること】織田――街道でまっすぐ押すか、山際の間道を回って本陣の側面へ出るか。砦の五駒を残すか、引き抜いて突撃に加えるか(引き抜けば今川の前衛が善照寺・中嶋を取りに来る。砦を一つ失うたびに点差は20動く)。鳴海城を無視して通り過ぎる勇気があるかどうか。史実の信長はそうした。今川――動けるのは前衛と鳴海城だけで、本陣と沓掛の後続は織田に触れられるまで眠っている。前衛で砦を落としに行くか、引き返して本陣の前に壁を作るか。どちらにしても、信長が北から来るまでに残された手番は少ない。義元は下がるほど安全だが、隣に織田が着けばZOCに縛られて動けず、下がった先は田楽狭間の窪地である。 【結末】義元は田楽狭間で討たれた。服部小平太が槍をつけ、毛利新介が首を取る。二万五千は、主を一人失っただけで、その日のうちに東へ散った。駿河・遠江・三河を束ねた東海一の弓取りの家は、そこから十年かけてほどけていく。人質として駿府で育った松平元康は岡崎城へ帰り、今川と縁を切り、やがて徳川家康と名を改めた。信長は尾張の東の扉を手に入れ、そこから美濃へ、京へと歩き出す。半日、二千に足りない手勢、槍の届いた一点。天下という言葉が現実の重さを持ちはじめたのは、この雨上がりの窪地からである。   雨が上がって、窪地が光った   二万五千は、首ひとつで散った   人質だった子は、東へ帰って名を変え   二千に足りない男は、西へ歩き出した   人間五十年   その五十年が、この半日から始まる 対陣の数日と、明け方の丸根・鷲津の攻防は畳んだ。盤は信長が善照寺砦に入ってから義元が討たれるまでの四時間半だけである。今川二万五千のうち盤に出るのは前衛の約一万で、残りは沓掛より東の街道に伸びていて間に合わない。兵力は人数どおりではなく、奇襲・豪雨・下り坂といったこの engine に器の無いものを織田側の戦闘力に乗せてある。※指揮官の一部と配置には同時代の記録からの推定を含む。 1ヘクス=300m、1ターン=30分、1CS≒150名。T1=10:00、T2=信長本隊の入場、T5=西方勢の判定開始、T9=14:00〜14:30(終了)。
ゲーム画面・1ターン目(英語表示)
ゲーム画面・1ターン目(英語表示)

地図

周辺図(概略) 桶狭間 清洲 熱田 鳴海 大高 沓掛 岡崎 吉田 → 駿府 伊勢湾 知多湾 境川 矢作川 三河の山
周辺図(概略)
戦場図(概略) 田楽狭間 今川本隊 桶狭間山 鳴海城 大高城 善照寺砦 中島砦 丸根砦 鷲津砦 東海道 → 沓掛から
戦場図(概略)