シナリオ

アウステルリッツの戦い

1805年 · ヨーロッパ 中量

露墺連合軍 — フランス大陸軍 · 11ターン · 駒 78

ブリーフィング

« Combien de temps vous faut-il pour porter vos divisions sur les hauteurs de Pratzen ? » « Moins de vingt minutes, Sire. » « En ce cas, attendons encore un quart d'heure. » 「プラツェンの高地へ君の師団を上げるのに、どれだけかかる」「二十分とかかりません、陛下」「では、もう十五分待とう」――夜明け前、ナポレオンとスールト元帥(セギュールの回想による・伝) 高地を空けたのは、負けていたからではない。空けて見せたのである。 1805年12月2日、モラヴィアの丘陵地。この日はナポレオンの戴冠一周年にあたる。フランス軍はウィーンを取ったあと補給線が伸び切っており、皇帝は「疲れて、迷って、退きたがっている軍」を演じた。前々日、彼は中央のプラツェン高地から兵を引き揚げ、右翼のゴルトバッハ沿いには一個師団しか置かなかった。連合軍の若い参謀たちはそれを見て、南から回り込んでウィーンへの道を切れば勝てると考える。前夜一時、オーストリア参謀ヴァイロターは五時間かけて命令書を読み上げた。独語で書かれた縦隊の順序を、ロシアの将軍たちは訳を待ちながら聞いた。クトゥーゾフは途中で眠ったと伝わる。夜が明けると谷は乳のような霧で、高地の上だけが晴れていた。 【プラツェン高地】盤の中央、Pratzen と書かれた村を中心に、北の肩が Stare Vinohrady(古い葡萄畑)、南の肩が Pratzeberg。この三つで盤の勝利点の半分(40点・24点・24点)を占める。開幕は三つとも連合軍のものである。ここを降りて南へ向かうのが連合軍の計画であり、降りた分だけ点そのものが手薄になる。 【連合軍の勝ち方】盤は点差 プラス70 から始まる。高地の三つと、後方のクルツェノヴィッツ20点、右翼のブラゾヴィッツ14点を連合軍が持っているからである。勝利線は プラス78。つまり高地を一つも渡さず、そのうえで削り合いに勝ち越して、はじめて勝ちになる。逆に言えばプラツェン村を一つ落とすだけで点差は80動く。三つとも失えば176動く。南で何を取っても、この計算は一点も動かない――南の旗は勝利点ではないからである。 【フランスの勝ち方】日が暮れるまで点差を勝利線の下に抑えればよい。そのために必要なのは高地であって、南の村ではない。フランスは37体で、連合軍より4体少ない。一度に動かせるのは14体(ダヴー軍団が合流するT3から15体)。 【南の四つの旗】盤の南、仏軍の右翼に沿って Kobelnitz、Sokolnitz Cast、Sokolnitz、Telnitz と旗が立っている。勝利点は一点も付いていない。連合軍が押さえているあいだ、一度に動かせる駒が増えるだけである(+1、+2、+2、+2。四つ全部で13体から20体になる)。守っているのはルグランの一個師団だけで、川の西岸に薄く並んでいる――ルヴァスール、コルシカ猟兵、ポー猟兵、メルル、第26軽歩兵。取れば手数が増える。増えるのは手数だけで、点は増えない。その間、点そのものである高地から兵が減っていく。史実で連合軍が犯した誤りは、盤の上では合理的な誘惑として立ち上がる。四つとも取ってから高地へ戻る道が、この盤の一番難しい判断である。なお小川(ゴルトバッハ)が盤に描いてあるのはソコルニッツ城から南だけで、そこは湿った牧草地のあいだを流れている――東から渡って攻める側は不利になる。上流は溝で、スールトの師団はそこを難なく渡った。 【アウジェスト】南の端、二つの池のあいだの堤道の口に、向きの逆の旗が立つ。Aujezd をフランス軍が押さえているあいだ、連合軍の枠は13から10に減る。フランス軍には何も起きない。南へ出した軍が多いほど、この一升の重さが増す――出口を絞られるのはその軍だからである。開幕は連合軍のものである。 【親衛隊】フランスの近衛三体(ベシエールの近衛騎兵、ラップの猟騎兵、徒の擲弾兵)は水色の縁で描かれる。この三体が最初に攻撃するか、攻撃を受けた瞬間、その手番のあとにもう一度だけ移動と戦闘の回がまわってくる。動けるのは近衛三体だけで、そのとき活動枠は数えない。追加の回にも戦闘の義務はあるが、義務を負うのは近衛と、近衛の隣に居る敵だけである。一ゲームに一度きり、フランス側だけが持つ。止める手立ては無い。できるのは時機をずらすことだけで、先に近衛を殴れば、向こうが選んだ好機ではなくこちらが備えた時点で吐き出させられる。史実では一時ごろ、コンスタンチン大公のロシア近衛が高地を奪い返しに出て、両軍の近衛が正面からぶつかった。 【ダヴーの軍団】盤の南西、Raigern への道からT2(八時)に第III軍団が入ってくる――ダヴー、フリアン、ウードレ。竜騎兵のブールシエはT3。彼らは四十八時間で百十キロを歩いてきた。ウィーンから追いついた七千である。テルニッツを最初に殴られる駒(第26軽歩兵)が持ちこたえられるかどうかは、この到着との競争になる。 【凍った池】南東の二つの池(ザッチャンとメニッツ)は凍っている。盤では薄い水色で、通れるが移動力を丸ごと食う。だから南へ出た軍が急いで帰る道は、堤道ただ一本しかない。 【指揮官】連合軍(ロシア=緑の札/オーストリア=鋼色の札):総司令官クトゥーゾフ。皇帝アレクサンドル一世が本営に居り、事実上の決定権を持っていた。オーストリア皇帝フランツ二世も戦場に居たが、指揮は執っていないので駒にしていない。作戦を書いたヴァイロターも同じ理由で駒に無い。中央の第4縦隊はコロヴラートとミロラドヴィチ、旅団はロッターマント(葡萄畑を守った)、ユルチェク(高地で倒れた)、ベルク。左翼はブクスヘーデン、先頭にキーンマイヤーの前衛――カルネヴィル、シュッターハイム、ノスティッツ。第1縦隊ドフトゥロフ、第2縦隊ランジュロン、第3縦隊プシビシェフスキ(Przybysz は札に収めた綴り。正しくは Przybyszewski)。ランジュロンの旅団長カメンスキーは、南へ向かう途中で高地に登ってくるフランス兵を見つけ、独断で引き返した。北は第5縦隊のリヒテンシュタイン公、ホーエンローエの胸甲騎兵、ウヴァーロフ、前衛のバグラチオン、ドルゴルーコフ、エンゲルハルト。近衛はコンスタンチン大公、騎兵近衛連隊、プレオブラジェンスキー、セミョーノフスキー、イズマイロフスキー。騎兵近衛の一隊を率いていたレプニン=ヴォルコンスキー公は、この日ラップに捕らえられて皇帝の前へ連れて行かれる。 フランス軍(青い札):ナポレオン一世。中央から南は第IV軍団のスールト――ヴァンダム、サン=ティレール、旅団のティエボー(第10軽歩兵を率いて先に登った)、第57戦列歩兵「恐るべき連隊」、第24軽歩兵、南翼のルグラン。北はランヌの第V軍団(シュシェ、カファレリ)と、サントンの塁を掘ったクラパレードの第17軽歩兵。塁の十八門はセナルモンが据えたと伝わる。騎兵予備はミュラ――ナンスーティ、ドープール、ヴァルテール、ケレルマン。中央の後詰は第I軍団のベルナドット(リヴォー、ドルーエ)。予備擲弾兵師団は本来ウディノのものだが、彼はこの日ホラブルンの傷で療養中で、デュロックが代行した。南西からはダヴーの第III軍団。 【この十時間で決めること】連合軍――南の四つをどこまで取りに行くか。四つ取れば手数は七つ増えるが、その七つを使う軍は高地に居ない。高地に何体残せば、スールトが登ってくるまで持ちこたえられるか。アウジェストの口を誰に守らせるか。フランス――右翼をいつまで一個師団で持たせるか。近衛の一撃をどこで、いつ切るか。早ければ確実に当たるが、当たる相手は前哨である。遅ければ薄くなった中央を割れるが、その頃には南の味方が居ないかもしれない。 【結末】九時、霧が晴れる寸前にスールトの二個師団が谷から登った。ミロラドヴィチの残った五個大隊とロッターマントのオーストリア旅団は高地の上で抵抗したが、正面から押され、横から巻かれて退いた。ユルチェクは倒れた。南へ向かっていたカメンスキーが引き返して斜面で戦い、ランジュロンは援軍を探しに行ったまま戻らなかった。一時、コンスタンチン大公のロシア近衛が高地を奪い返しに出る。騎兵近衛連隊がフランスの大隊を割り、その正面へベシエールの近衛騎兵が投げ込まれた。ラップは軍旗と捕虜を連れて皇帝のもとへ戻る。血だらけの顔で「これが騎兵近衛です」と言ったと伝わる。高地を失った瞬間、南の三個縦隊は退路の上に敵を置かれた。ブクスヘーデンの軍は堤道と凍った池へ押し込まれ、砲車が氷を割った。ナポレオンは公報で二万が溺れたと書いたが、のちに池の水を抜いたとき、上がったのは死体数体と馬百五十頭ほどだったという。連合軍は二万七千を失い、大砲百八十門を置いていった。フランスの損害は九千に満たない。十二月四日、フランツ二世は焚き火のそばでナポレオンと会って休戦を求め、二十六日にプレスブルクで講和が成る。第三次対仏大同盟は消えた。ロンドンでは、報せを読んだ小ピットが壁の欧州地図を指して「その地図を巻いておけ。今後十年は要るまい」と言い、翌月に死んだ。アレクサンドル一世は生涯この日を口にしなくなる。神聖ローマ帝国は八か月後に消滅した。   高地を空けて、皇帝は十五分待った   霧が晴れたのは、二十分とかからなかった   南へ降りた三個縦隊は、帰り道に敵を見た   氷が割れた。溺れたのは公報の中の二万で、   池の底から上がったのは、数体と馬だけだった   地図が巻かれたのは、この半日のためである 前夜までの機動(ウィーンの占領、ヴィシャウの小競り合い、退却の演技)と、翌日以降の追撃・休戦交渉は畳んだ。盤は霧の中の七時から、日の落ちる五時までの十時間だけである。師団・旅団は一体から三体にまとめてあり、連隊名で立っている駒は「その名の連隊を核とする一団」と読んでほしい。兵力は人数ではフランス72,000(ダヴーを含む)対 連合85,000だが、盤の戦闘力ではフランス140、連合155にしてある――多国籍の混成である連合軍の統制の悪さは戦闘力ではなく活動枠(13体)で書き、古参のフランス師団と両軍の近衛を一目盛り上げたためである。連合軍の砲は史実では三百門近くあり数で圧倒していたが、盤では射程を持つ駒三体に畳んである。 1ヘクス=400m、1ターン=60分、1CS≒550名。T1=12/2 07:00(連合軍左翼がテルニッツへ降り始める)、T2=08:00(ダヴー軍団が南西から到着)、T3=09:00(スールトの高地への登坂)、T7=13:00(ロシア近衛の反撃)、T11=17:00(最終ターン。終わりは18:00)。一度に動かせるのは連合軍13駒(南の旗を四つ取れば20駒、アウジェストを失えば10駒)、フランス軍14駒(T3から15駒)。フランスの近衛三体だけは、一ゲームに一度、この枠の外でもう一度動く。

地図

周辺図(概略) アウステルリッツ ブリュン アウステルリッツの町 ヴィシャウ ライゲルン プラツェン高地 ザッチャン池 → オルミュッツ → ウィーン スヴラトカ川 リタヴァ川
周辺図(概略)
戦場図(概略) サントン ボゼニッツ プントヴィッツ コベルニッツ ソコルニッツ テルニッツ アウジェスト ブラゾヴィッツ プラツェン クルツェノヴィッツ プラツェン高地 ゴルトバッハ 凍った池 ダヴー → オルミュッツ街道
戦場図(概略)