定軍山の戦い
219年 · 中国 軽量
劉備軍 — 魏軍 · 9ターン · 駒 48
ブリーフィング
「爲將當有怯弱時、不可但恃勇也。將當以勇爲本、行之以智計。但知任勇、一匹夫敵耳」
「将たる者には、怯えて弱くなる時があってよい。勇だけを頼んではならぬ。勇を本とし、智と計で行え。勇に任せることしか知らぬなら、一人の男の相手にすぎぬ」――曹操、勝ち続ける夏侯淵をいつも戒めて(『三国志』魏書夏侯淵伝)
正月の夜、午前四時。定軍山の麓で、魏の圍の鹿角が燃えている。火を付けたのは劉備である。前の年から陽平関で夏侯淵・張郃と睨み合ったまま一年動けなかった軍が、漢水を南へ渡り、山沿いに少しずつ進んで、この山の上に陣を据えた。淵はその地を争いに出てきた。盤はその夜から始まる。
魏の圍は二つある。山の東の麓の東圍を張郃が、南の谷の南圍を夏侯淵が自ら軽兵で守る。二つの圍のあいだは谷の道で十一升。その道は走馬谷で、山の東南の肩の真下を通る。そして肩の上に、黄忠がいる。
【頭を取る ── 劉備軍の勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。勝利線は0。点差は劉備軍から見た数字で、+7に届けば劉備軍の、−7まで下がれば魏軍の戦術的勝利である。勝利線から7点先で終われば戦術的勝利、60点先で作戦的勝利、119点先で圧倒的勝利。どちらも届かなければ引き分けである。拠点は定軍山30・南圍20・東圍20・陽平関10。劉備軍は定軍山と陽平関の40を、魏軍は二つの圍の40を持って始まる。
ただしこの盤には、点差より速い勝ち方がひとつある。夏侯淵はサドンデス部隊(金の縁の駒)で、壊滅した瞬間に魏軍の負けになる。淵の移動力は5、盤でいちばん速い将である。軍中の歌に「典軍校尉夏侯淵、三日に五百、六日に一千」とある。速いから、助けに走る。
【圍を持つ ── 魏軍の勝ち方】魏軍は同じ数直線の反対側で勝つ。淵を生かしたまま、二つの圍を最後まで持っていれば、点差は動かない。問題は、東の圍が押されたときである。史実の淵は兵の半ばを割いて郃を助け、自分は軽兵で南へ戻る途中で討たれた。助けに行かなければ東圍が落ちる。行けば、谷の道が山の下を通る。
【乗高鼓譟 ── 一度きりの駆け下り】法正伝に「黄忠に命じて高きに乗り、鼓譟してこれを攻めしむ」とある。黄忠と、その脇の黄忠精卒一・二は奇襲部隊(水色の縁)で、三体のどれかが最初に戦ったとき、その手番の終わりに三体だけがもう一度動き、もう一度戦える。劉備軍のゲームを通して一度だけ。法正が「撃つべし」と言ったのは、淵が兵を分けた後だった。
【病の司馬】漢水の北岸、沔陽のそばに郭淮・杜襲と後詰めの二隊がいる。待機部隊で、自分からは動かない。郭淮伝に「淮、時に疾ありて出でず」とある。攻められるか敵に隣接されれば起き、昼のT5からは毎ターン20%ずつ上がる確率で起きる。淵の司馬として、敗れた軍をまとめ直したのはこの男である。
【指揮官】劉備軍:劉備。定軍山の上に黄忠・黄権・高翔・劉封、北の麓の本営に趙雲とその部将の張著、沔陽長の張翼、東の手に魏延・陳式。部隊名は、張郃伝の「精卒万余を十部に分かち」から取った精卒、劉璋から受け継いだ東州兵、巴西郡と蜀郡の兵。この戦いの策を立てたのは法正と黄権だが、法正には兵を率いた記述が無いので駒にしていない。張飛・馬超・呉蘭・雷銅は前年の下辯の戦役の人で、呉蘭と雷銅はそこで討たれている。
魏軍:夏侯淵(征西将軍・都護)。東圍に張郃と徐晃、南圍に淵と、曹操が置いた益州刺史の趙顒、淵の五男で十三歳の夏侯栄。後詰めに淵の司馬の郭淮と、漢中の軍事を督した杜襲。部隊名は、淵の軽兵、張郃の親兵、涼州・雍州の兵、関右の羌の騎兵、武都の氐、漢中の兵。曹操・曹真・曹洪・曹休は淵の死後に来た人々なので、盤にいない。
【九ターンで決めること】劉備軍――東で郃を押すか、南の圍を取りに行くか、それとも淵が動くのを待つか。枠は10、24体の半分も動かせない。黄忠の一度は一度しかない。魏軍――淵を南の圍に留めるか、東へ走らせるか。枠は9。山を争いに登れば、登った先は守る側の戦闘力が2倍になる升である。
【結末】淵は討たれた。趙顒も死んだ。十三歳の夏侯栄は、左右の者が手を引いて逃がそうとしたが、「君と親が難にあるのに、どこへ逃げて死を免れよう」と言って剣を振るい、陣に没した。軍中は色を失い、郭淮が散った兵を集めて張郃を立て、諸営はようやく静まった。翌日、劉備は漢水を渡ろうとしたが、郭淮が水から離れて陣を敷くのを見て渡らなかった。劉備は「その魁を得るべきであった。これを得て何になる」と言ったという(『魏略』)。自分が恐れていたのは張郃のほうだった。三月、曹操が長安から来て陽平に至り、「鶏肋」の令を出して、五月に漢中を捨てた。七月、劉備は漢中王を名乗る。黄忠は征西将軍となり、翌年に死んだ。淵の遺骸を葬ったのは、張飛の妻になっていた淵の姪である。
鹿角の燃える夜、淵は兵を半ばに割った
割った半ばは、山の下の谷を東へ急いだ
山の上で、鼓が鳴った
十三の子は、手を引かれても逃げなかった
一匹夫の敵、と戒められた男の骨を、敵の将の妻が葬った
その年の秋、劉備は王を名乗った
陽平関での一年の対峙は畳み、鹿角を焼いた夜から同じ日の夜までを9ターンにした。二つの圍と走馬谷の位置は史料に無く、地形から推定した。法正伝は「定軍・興勢に営を作る」と書くが、興勢は八十キロ東の山なので、先主伝の「定軍山の勢に営を作る」を採った。張郃伝は淵の死を「火を救いに行き、他の道で劉備と遭って戦い、没した」と書き、夏侯淵伝は「兵の半ばを割いて郃を助け、襲われて戦死した」と書く。盤は両方が起こりうる形に置いた。徐晃・高翔・魏延・劉封・陳式・趙雲・張著・張翼はこの戦役の漢中にいたが、この日に定軍山にいた記述は無く、配置は推定である。戦闘力は人数の比ではない(劉備軍75対魏軍63。黄忠の三体に、山から駆け下りて淵に届くだけの重さを乗せた)。駒の旗のうち、総大将の「帥」は小説・漫画の約束事にならったもので、史料に見える旗ではない。
1ヘクス=500m、1ターン=2時間、1CS≒400名。T1=正月の夜4時、T2=夜明けの6時、T5=正午、T9=夜8時。
地図
定軍山
陽平関
南鄭
漢水(沔水)
秦嶺
米倉山(巴山)
褒斜道
馬鳴閣道
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→ 成都
漢中盆地
定軍山
陽平関
沔陽
東圍(張郃)
南圍(夏侯淵)
劉備の本営
走馬谷
黄忠「乗高鼓譟」
淵、兵の半ばを割く
夜、鹿角を焼く
郭淮(病にて出ず)
漢水(沔水)
→ 南鄭