邲の戦い
紀元前597年 · 中国 中量
楚軍 — 晋軍 · 10ターン · 駒 44
ブリーフィング
夫文、止戈為武。
「そもそも文字の上では、戈(ほこ)を止めると書いて『武』となる」――楚の荘王、戦いの後、晋兵の屍を積んで京観(勝利の塚)を築こうと勧められて(『左伝』宣公十二年)
先縠は、命令を待たずに河を渡った。
晋の救援軍が黄河に着いたとき、鄭はすでに楚に降っていた。中軍の将・荀林父は引き返そうとし、上軍の将・士会も同じ考えだった。だが中軍の佐・先縠(彘子)は「敵がいると聞いて退くのは男子ではない」と、自分の兵だけで河を渡った。司馬の韓厥は荀林父に言う。「一部を失えば罪は重い。いっそ全軍で渡れば、罪は六人で分けられる」。こうして晋の三軍は、黄河を背にして敖と鄗のあいだに陣を置いた。
楚の荘王も一度は帰ろうとしたが、嬖人の伍参が戦いを説いた。この日の午後、楚の三人の車(楽伯・許伯・摂叔)が晋の陣へ挑み、晋の魏錡と趙旃が楚の陣へ挑み返す。令尹の孫叔敖が叫ぶ。「寧我薄人、無人薄我(こちらから押せ、押されるな)」。
【楚の勝ち方】一度に動かせるのは10駒。晋は7駒しかない。車(移動5)を先に、徒卒を後に、一気に北へ押す。晋の陣(30点ではなく20点)・敖山(15)・鄗(10)を取り、晋の兵を黄河に押しつけて討つ。勝利線は+17。楚から見た点差が+17を上回れば勝ち。
【晋の勝ち方】陣を守り通すことではない。岸の四つの渡し(盤外脱出の口)から舟で北岸へ逃れた兵は、戦闘力1につき2点になる。将たちの意見が割れて、命令は7駒にしか届かない。誰を先に渡し、誰に殿(しんがり)をさせるか。敖山の上軍(Shi Hui)は、崩れずに退けるか。
【指揮官】晋:中軍の将 荀林父(桓子・帥)/佐 先縠(彘子)/中軍大夫 趙括・趙嬰斉/上軍の将 士会(随武子)/佐 郤克/郤錡(駒伯)/上軍大夫 鞏朔・韓穿/下軍の将 趙朔/佐 欒書/下軍大夫 荀首(知荘子)・趙同/荀首の子 知罃/司馬 韓厥/楚へ挑んだ魏錡と趙旃。
楚:荘王(帥)/王の車右 屈蕩/令尹 孫叔敖/中軍の将 沈尹/左軍の将 子重/右軍の将 子反/伍参/潘党/晋へ挑んだ一乗の三人 楽伯・許伯・摂叔/右拒の卒を率いた工尹斉/左拒となった唐の恵侯/連尹襄老/公子穀臣/知罃を捕らえた熊負羈。
★四神の旗(前後左右と中軍)と「帥」の旗は、後世の約束事で飾ったもので、この戦いの旗を写したものではない。
【この盤で試せる判断】
・(楚)先に着いた車だけで晋の陣へ突っ込むか、徒卒がそろうのを待つか。孫叔敖の答えは「待つな」だった。
・(晋)先縠の兵(前に出ている)を救いに出るか、見捨てて渡しへ向かうか。
・(晋)渡しに楚の車が回り込む前に、何駒を舟に乗せられるか。
【結末】荀林父は何をすべきか分からず、陣中で鼓を打って「先に済る者に賞あり」と命じた。中軍と下軍は舟を争い、舟に先に乗った者が縁にすがる手を斬ったので、舟の中の指は両手ですくえるほどだったという。上軍だけは動かず、士会は自ら殿となって兵を収め、崩れずに退いた。荀首は捕らわれた子の知罃を取り返すために引き返し、連尹襄老を射て屍を奪い、公子穀臣を捕らえて帰った。日が暮れると楚は邲に軍し、晋の残兵は陣を立てられず、夜通し声を上げながら河を渡った。潘党が晋兵の屍で京観を築こうと勧めると、荘王は「止戈為武」と退け、河のほとりで祖先を祭って帰った。荘王は覇者となった。八年後、上軍の佐だった郤克は、鞌で斉を破る。
河を渡ったのは、ひとりの独断だった
押せ、押されるな
中軍と下軍は、舟を争った
上軍だけが、並んだまま退いた
勝った王は、屍を積まなかった
戈を止める、と書いて武と読む
晋の三軍の兵数は史料に無く、戦車の数から推して盤に載せた。晋の残兵が夜に河を渡った場面は、盤の外(T10 の後)に置いた。邲・敖・鄗の位置は今の鄭州の北西、黄河の南岸と推定されているが、確定していない。
1ヘクス=300m、1ターン=30分、1CS≒250名(戦車と徒卒をまとめて)。T1=六月 13:00、T10=17:30(昏)。
地図
邲
黄河
鄭(楚に降る)
晋
楚
洛邑(周)
晋の救援(黄河を渡る)
楚、北へ
黄河
敖山
鄗
晋の陣(敖・鄗の間)
邲
上軍(士会)=殿して退く
中軍・下軍、舟を争う
寧我薄人、無人薄我
先縠(独断で渡る)
→ 管