シナリオ

ケーニヒグレーツの戦い(連隊規模)

1866年 · ヨーロッパ 重量

プロイセン軍 — オーストリア・ザクセン軍 · 13ターン · 駒 195

ブリーフィング

「Bitte inständigst, um jeden Preis Frieden zu schließen. Katastrophe für die Armee unvermeidlich.」 「なにとぞ、いかなる代償を払ってでも講和を。軍の破局は避けられません」――ルートヴィヒ・フォン・ベネデク、七月一日、皇帝フランツ・ヨーゼフへの電報。皇帝は「講和は不可能。やむを得ざる場合は退却を命ず。会戦はすでに行われたか」と返した。会戦は、その二日後に行われた。 七月三日の朝は霧雨だった。ビストリッツ川に沿った村――ベナテク、サドヴァ、ドハリツェ――へ、プロイセン第一軍が下りていく。川の東はなだらかな畑で、その畑が緩く持ち上がったところにフルムとリパの二つの村がある。オーストリア北方軍の砲は、そこに据わっている。川へ下りた者は、上から見られている。 第一軍は、その稜線を正面から抜けと命じられてはいない。押さえていろ、と命じられている。押さえているあいだに、別の道を歩いてきた軍が右手に出る――それがモルトケの立てた段取りのすべてである。皇太子フリードリヒの第二軍は前夜ケーニギンホーフにいて、夜明けから南へ歩いている。盤の北の縁は、その道である。 だが段取りは、盤の上では見えない。見えているのはビストリッツ川と、渡れば上から撃たれるという事実だけである。第二軍が間に合わなければ、第一軍は午前中に稜線の前で擦り切れる。 【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。点差=(自軍が支配する拠点の点数 − 敵軍が支配する拠点の点数)+(敵に与えた損害 − 自軍が受けた損害)。盤の上の拠点は十で二〇五点、そのうち一七五点をオーストリアが最初から握っている。プロイセンから見た点差が勝利線(+65点)より上で終われば勝ち、下ならオーストリアの勝ち。拠点は取れば自分に加わり相手から引かれるので、二倍に効く――フルムひとつで八〇点動く。この盤で、フルムを取らずに届く道は、まず無い。線から22点離れれば戦術的勝利、180点で作戦的勝利、360点で圧倒的勝利。22点に届かなければ引き分けである。 【退く道】オーストリア軍だけは、盤の東の縁からエルベ川とケーニヒグレーツの城塞へ抜けられる。抜けた部隊は戦闘力一につき一点、砲兵予備はさらに二〇点。負けてもよいから軍を持ち帰る、という勝ち方がこちら側にはある。ただし出口は四升しかなく、蓋をされれば抜けた部隊は撃破として数えられる。 【一度に動かせる数】プロイセンは二九。第二軍が入る第五ターンに一四、第八ターンにさらに六が加わって四九になる。オーストリアは三九で据え置き。ただし森の中のシュヴィープ(+六)と、その西のチステヴェス(+四)を押さえていれば、その間だけ四九まで増える。増えるのは手数だけで、点にはならない。 【指揮官】駒の名は、上が師団長(プロイセン)・旅団長(オーストリア)、下が連隊(IR=歩兵連隊とその番号)。プロイセン軍:Fr.Karl=フリードリヒ・カール親王(第一軍)、Fransecky=フランセツキー(第七師団・森へ入る)、Horn=ホルン(第八師団)、Werder=ヴェルダー(第三師団)、4th Div=第四師団、Tuempling=テュンプリング(第五師団)、Manstein=マンシュタイン(第六師団)、Alvensleben=アルフェンスレーベン(第一騎兵師団)、Weyhern=ハン・フォン・ヴァイエルン(第二騎兵師団)。Herwarth=ヘルヴァルト・フォン・ビッテンフェルト(エルベ軍)、Muenster=ミュンスター=マインヘーフェル(第十四師団)、Canstein=カンシュタイン(第十五師団)、Etzel=エッツェル(第十六師団)。Kronprinz=皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(第二軍)、Pr.August=アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク親王(近衛軍団)、Hiller=ヒラー・フォン・ゲルトリンゲン(近衛第一師団)、Plonski=プロンスキ(近衛第二師団)、Bonin=ボーニン(第一軍団)・Grossmann と Clausewitz=その二個師団、Steinmetz=シュタインメッツ(第五軍団)・Loewenfeld と Kirchbach=その二個師団、Mutius=ムティウス(第六軍団)・Zastrow と Prondzynski=その二個師団。 オーストリア・ザクセン軍:Benedek=ルートヴィヒ・フォン・ベネデク(北方軍)。III軍団 Ernst=エルンスト大公(Appiano・Col.Benedek=総司令官とは別人のベネデク大佐・Kirchsberg・Prochaska)、X軍団 Gablenz=ガブレンツ(Mondel・Grivicic・Knebel・Wimpffen)、IV軍団 Festetics=フェスティティチュと Mollinary=モリナリ(Brandenstein・Fleischhacker・Poeckh・Ehz.Joseph=ヨーゼフ大公、うち森へ突っ込んだのがブランデンシュタインとペック)、II軍団 Thun=トゥーン=ホーエンシュタイン(Thom・Henriquez・Saffran・Wuerttemberg=ヴュルテンベルク公)、VIII軍団 Leopold=レオポルト大公(Fragnern・Kreyssern・Roth・Rothkirch)、VI軍団 Ramming=ラミング(Waldstaetten・Hertwek・Rosenzweig・Jonak)、I軍団 Clam-Gallas=クラム=ガラス(Poschacher・Leiningen・Piret・Ringelsheim)。Albert=ザクセン王太子アルベルト(Schimpff と Stieglitz=二個師団、Fritsch=騎兵)。Holstein・Coudenhove・2 Res Cav=予備騎兵三個師団、Edelsheim と Taxis=軽騎兵二個師団(下段は旅団長)。Arty Res=砲兵予備。 【この盤で試せる判断】ひとつめ。森へ入るか。シュヴィープの森は手数をくれるが、入ると右翼が西へ寄る。史実ではフェスティティチュの軍団が命令に反して森へ突っ込み、そのぶんホレノヴェスからネデリシュトまでの線が薄くなった。森は手数になり、右翼は北へ向いていなければならない。両方は取れない。 ふたつめ。第一軍をどこまで擦り減らすか。第二軍が入るのは第五ターンで、そこからフルムまで二十一升ある。早く押しすぎれば稜線の前で止まり、押さなければオーストリアは全軍で北を向ける。 みっつめ。砲をどう使うか。オーストリアの砲兵予備は施条砲で、射程が一升長い。ただし重く、敵に隣接されると撃てず下がれもしない。プロイセンの歩兵は針銃を持っていて、同じ人数なら戦闘力が一段高い――射程ではなく、手数の差が戦闘力に化けている。 【結末】第二軍の近衛が正午すぎにホレノヴェスの菩提樹の丘へ出て、そこから南へ折れた。二時半すぎ、フルムが落ちる。丘を取ったヒラー・フォン・ゲルトリンゲンはその場で倒れた。ベネデクは中央が抜かれたことを知らされて馬で駆けつけ、ラミングの軍団を逆襲に出したが、ロスベリツの村で潰れた。あとは砲兵予備だけが残って撃ち続け、その砲列の背後を北方軍がエルベ川へ引いていく。四万四千を失い、うち二万が捕虜だった。 七週間の戦争は、この午後で終わっている。オーストリアはドイツから出され、プラハで和が結ばれ、五年のちフランスが同じ軍とヴェルサイユで向き合うことになる。ベネデクは軍法会議にかけられ、皇帝の命で弁明を封じられたまま、グラーツで十五年黙って暮らして死んだ。   霧雨の朝に、川へ下りた   菩提樹の丘から、南へ折れた   砲だけが残って、軍を渡らせた   四万四千と、七週間   講和を、いかなる代償を払ってでも――   その電報から、二日だった 対陣までの三日間の機動、ベネデクが前夜に稜線を選んだ経緯、午後三時すぎのストレゼティツェの騎兵戦は畳んである。ネハニツェの渡りは盤の外で、エルベ軍は南西の縁から渡り終えた形で始まる。★この版は m 版(mKoniggratz1866)と同じ範囲を、細かい升と連隊の駒で描き直した超重量級である。プロイセンは連隊を一駒(猟兵大隊は師団の連隊へ畳んだ)、オーストリアは旅団を二個連隊に割り(野戦猟兵大隊は畳んだ)、ザクセンは旅団を半分ずつ、騎兵は旅団を一駒にした。第五軍団は連隊番号が資料で食い違うので旅団で書いた。 1ヘクス=250m、1ターン=40分、1CS≒1,000名。T1=7/3 08:00、T5=10:40(第二軍が盤へ入る)、T9=13:20、T11=14:40(史実でフルムが落ちた刻)、T13=16:00(北方軍がエルベ川へ退く)。

地図

周辺図(概略) ケーニヒグレーツ(サドヴァ) ケーニヒグレーツ ヨーゼフシュタット ケーニギンホーフ ホリツェ ギッチン プラハ オルミュッツ 第一軍・エルベ軍 第二軍 北方軍 エルベ川 シュレージエン(プロイセン領) → ウィーンへ
周辺図(概略)
戦場図(概略) フルム リパ サドヴァ ホレノヴェス マスロイェディ シュヴィープの森 ロスベリツ プロブルス ベナテク ドハリツェ スヴェティ ネデリシュト ビストリッツ川 トロティナ川 第一軍 エルベ軍 第二軍 → ケーニヒグレーツ
戦場図(概略)