コンスタンティノープルの陥落
1453年 · ヨーロッパ 中量
ビザンツ・ラテン守備隊 — オスマン軍 · 9ターン · 駒 73
ブリーフィング
Το δε την πόλιν σοι δούναι ούτ' εμόν εστιν ούτ' άλλου των κατοικούντων εν ταύτη.
「この都をあなたに渡すことは、私の一存でもできないし、ここに住む誰の一存でもできない」――コンスタンティノス11世、メフメト2世の降伏勧告への返書(スフランゼス『年代記』を後代に増補した『大年代記』・伝)
守兵は七千。壁は五キロ半ある。一人あたり八百ミリメートル。
一四五三年五月二十九日、午前一時半。五十三日目の夜である。四月六日に囲みが閉じてから、ウルバンの鋳た巨砲は毎日ゆっくりと外壁を削り続けた。撃つのは一日に七度。弾が落ちるたびに壁が欠け、夜になると守兵が降りていって、樽と土と瓦礫で埋め戻す。埋め戻したところをまた撃たれる。それが五十三日続いた。四月二十二日には艦隊が丘を越えて金角湾に入り、そのぶんの守兵が海側の壁へ抜けていった。もう戻ってこない。
この夜、メフメト2世は波を三つ用意した。まず非正規兵を走らせて守兵を疲れさせ、次にアナトリアの正規兵をブラケルナエの古い壁へ当て、最後にイェニチェリを出す。二時間おきに新しい兵が来る。守る側に交代はない。
盤は金角湾から黄金門まで、テオドシウスの城壁の五キロぶんである。壁は一様ではない。南半分は堀と外壁と大城壁が三枚重なった本物のテオドシウスの城壁で、盤では外壁の柵と大城壁の二枚に畳んである。どちらにせよ、ここは抜けない。抜けるのは二か所だけである。ひとつはリュコス谷のメソテイキオン――谷底で壁がいちばん低くなり、堀は斜面で維持できずに聖ロマノス門で終わっていた。巨砲が狙い続けたのもここで、外壁はもう瓦礫の山になっている。残っているのはジュスティニアーニが夜ごとに積み直した急造の柵だけである。もうひとつはブラケルナエのケルコポルタ――壁の隅の小さな通用門で、その夜、閂が下りていなかった。
【勝ち方】勝敗は点差ひとつで決まる。門と拠点の点差に、与えた損害と受けた損害の差を足したもの。開幕は守備側が百七十二点先行している――点は全部、城壁の内側にあるからである。城壁の外に取れるものは一つも置いていない。オスマン軍が勝つには、メソテイキオンとカリシオス門とブラケルナエを抜いて、点差を二十点ぶん自分の側へ振り切らなければならない。守備側は、夜が明けるまで壁の上に立っていればよい。
【指揮官】守る側:Constantine=コンスタンティノス11世パレオロゴス(最後のローマ皇帝)/Giustiniani=ジョヴァンニ・ジュスティニアーニ・ロンゴ(ジェノヴァから七百人を連れて自弁で来た。総指揮を委ねられている)/Dalmata=ヨハネス・ダルマタ/Toledo=ドン・フランシスコ・デ・トレド/Minotto=ジローラモ・ミノット(ヴェネツィアのバイロ)/Bocchiardi=ボッキアルディ三兄弟/Caristo=テオドロ・ディ・カリスト(老いた弓の名手)/Notaras=ルーカス・ノタラス(大公・機動予備)/Grant=ヨハネス・グラント(坑道を掘り返した技師)/Sphrantzes=ゲオルギオス・スフランゼス(市長官。この夜を書き残した)/Orhan=亡命したオスマンの皇子オルハン。攻める側:Mehmed=メフメト2世(二十一歳)/Halil=チャンダルル・ハリル・パシャ(大宰相。この攻囲に最後まで反対した)/Zaganos=ザガノス・パシャ(浮橋を架けた)/Karaca=カラジャ・パシャ/Ishak=イサク・パシャ/Urban=ウルバンの巨砲/Hasan=ウルバトルのハサン(最初に壁へ登ったと伝わる)。
【この盤で試せる判断】ひとつ、金角湾を取り返しに行くか。湾の岸をオスマン軍が押さえているあいだ、守備側は一度に動かせる駒が二つ減る。取り返すには城壁の外へ出るしかない。壁を出た兵は壁の守りではなくなる。ふたつ、ケルコポルタに何体を割くか。あの小門はオスマン軍が押さえても点にならない。増えるのは手数だけである。だが手数こそがこの夜の勝負であり、守備側にとっては壁の反対側の端にある。みっつ、ジュスティニアーニを柵から下ろすかどうか。彼は盤でいちばん強い駒で、いちばん危ない升に立っている。史実で守りが崩れたのは、彼が倒れて運び出された、その一瞬である。
【結末】夜が明ける前にケルコポルタから五十人ほどが入り、塔に旗を立てた。ほとんど同じころ、ジュスティニアーニが胸甲を貫かれて倒れる。担架は城内へ運ばれ、それを見たジェノヴァ勢が続いた。柵の一角が空く。皇帝は最後に見られたとき、紫の沓を脱ぎ捨てて破れ口へ駆け込んでいったという。遺体は見つからなかった。ノタラスは五日後に処刑され、ミノットも殺された。ジュスティニアーニは船でキオスまで運ばれ、そこで死んだ。イシドロスは服を取り替えて逃げおおせ、スフランゼスは家族を失って修道院で年代記を書いた。メフメト2世はその日の午後、カリシオス門から入って聖ソフィアへ馬を進める。二十一歳の彼はこの日から「征服者」と呼ばれた。西ではこの知らせが届いて、ローマ帝国という言葉がとうとう過去形になる。ギリシャ語の写本を抱えた人々がイタリアへ渡り、五十年のうちにそれが別の名前で呼ばれるものを始めた。
千年、誰も越えなかった壁に
五十三日ぶん、穴が空いていた
閂ひとつが下りていなかった
紫の沓は、破れ口の手前に脱いであった
この都をあなたに渡すことは、私の一存ではできない
渡さなかった。落ちただけである
四月六日から五月二十八日までの砲撃と坑道戦、丘越しの艦隊、四月二十日の海戦は盤に載せていない。載せたのは最後の一夜だけである。海側の壁とマルマラ海の正面、黄金門より南のマルモラ塔までの一キロも切った。守備側の戦闘力は、人数どおりには書いていない――七千を同じ物差しで置くと盤が出題にならないので、意図的に引き上げてある。オスマン軍の兵数は五万から八万まで説が割れており、少ないほうを採った。堀は柵と同じ向きに重なって効き目が消えるので、外壁の柵一枚に畳んだ――堀の無い区間(リュコス谷とブラケルナエ)には、その柵そのものを置いていない。
1ヘクス=200m、1ターン=30分、1CS≒300名(オスマン軍の換算。守備側は上の断り書きのとおり)。T1=5/29 01:30 最初の波が堀へ降りる/T6=04:00 イェニチェリが出る/T9=05:30 壁が抜ける。
地図
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